アルフレッド・W. クロスビー『数量化革命--ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』小沢千重子訳、紀伊國屋書店、2003年、103–127ページ。
第1部 数量化という革命--汎測量術(パントメトリー)の誕生
第4章 時間--機械時計と暦
時間には実体がないことが、かつて聖アウグスティヌスを悩ませ、今日でも我々を悩ませている。中世の西ヨーロッパ人が時間を計るに当たって、まず実用的な度量衡学に踏み込んだことと、時間の計測技術の開発を暦の改良に先んじて行ったことは、当然の成り行きだった。その理由は、一時間という時間の長さは自然現象ではなく人間の裁量によって決定できる反面、一日という時間の長さは自然現象によって区切られており、また暦は慣習と宗教的権威をまとっているためである。
ものの売買を通じて数量化の潮流の中にいた都市の住民にとって、時間は何より重要なものとなっていた。中世とルネサンス期には、都市の生活は鐘によって区切られていた。しかし、鐘の音が告げていたのは定時課の時刻であって正確な時刻ではなかった上に、それに合わせて生活するには鐘が鳴らされる回数は少なすぎた。
ヨーロッパで最初の機械時計を、誰がどこで作ったのかということは、今もわかっていないし、これからもわからないだろう(論理的には、大きくて財力のある修道会(技術的に進んでいたシトー修道会など)の修道士が、北ヨーロッパ、特に北フランスで発明したと推論できる)。機械時計の発明の時期については、特定はできないものの、1270年代と推測されている。1300年代以後は、時間を測る機械への言及が大幅に増えているため、その頃までに機械時計が実在していたことは間違いない。当時の時計には文字盤も針もなく鐘しかついていなかったが、西ヨーロッパ社会はそれでも、数量化された時間の時代に入り込んでいたと言える。
機械時計の発明以前は、時間は切れ目なく流れるものと見なされていた。そのため時間が流れる姿を模倣することによって(水や砂の流れを計る、ろうそくを燃やすなどして)時間を計ろうとする努力が重ねられたが、それらはうまくいかなかった。時間を、ある長さをもった瞬間が連続したものと見なすことによって初めて、時間の計測が可能になったのである。
計時装置において錘の降下速度を一定に保つにはどうすればよいかという技術的な問題は、脱進機の発明によって解決された。西ヨーロッパの機械時計は、開発当初から、季節によらず均等な時間を刻んでいた。これはおそらく初期の資本家たちが、季節を問わず労働者に一定時間労働させることを望んたためだろう。西ヨーロッパ人はすでに、時間を均質なものと見なし始めていた。
また1330年以降、ドイツやイングランド、そしてフランスで、不定時法に代わって定時法が広く採用されるようになった。こうして、目に見えず実体をもたない時間が、客観的な考察の対象となった。
さらに時計は西ヨーロッパ人に、世界を表象する新しい隠喩(メタファー)を与えた。「世界機械」という類のメタファーは紀元前から存在していたが、14世紀には「時計じかけの宇宙」という極めて明確なメタファーが形成され、ケプラーや、古典経済学とマルクス主義の創始者たちにも影響を与えた。
天才ではなく一般の人々に目を転じてみると、当時の人口の大部分を占めていた農民が時計をどのように見なしていたのかは、ほとんどわかっていない。しかし都市の住民が機械時計を大いに尊重していたことは確かである。多くの都市が時計を所有するために住民に厳しく課税していたものの、17世紀以前に時計ほど速やかに普及した複雑な機械装置はなかっただろう。名高いストラスブール大聖堂の時計は1352年に建造が始まり、その2年後に完成した。この時計は時刻を告げるだけでなく、自動式のアストロラーベや万年暦、賛美歌を奏でる組み鐘(カリヨン)など、多くの装置が付属していた。この時計は人々に、切れ目なく流れる時間が量で成り立っていること、物事を数量化することを教えたのである。
西ヨーロッパ人が、時計を開発してそれに従うことを速やかに受け入れた一方、暦の改革には尻込みしたという事実は、驚くには当たらない。むしろ彼らが暦を改革したという事実自体が驚嘆に値することである。
キリスト教において復活祭の日取りは厳密に決められていた。しかし第2章で述べたように、ユリウス暦では太陽年の長さが誤って算定されたため、暦上の春分の日と天文事象である春分がずれていっていた。つまり復活祭を誤った日取りで行っている可能性があり、これは看過できない問題だった。
1582年、教皇グレゴリウス13世は専門家に暦の改革を協議させ、グレゴリオ暦と呼ばれることになる新たな暦が用いられることになった。この改革は多くの人々を当惑させ、論争が長く続いたが、結果的にグレゴリオ暦が勝利を収めた。その要因は、この暦は完璧ではなくても実用的であるということであった。ムスリムは当時も今も太陰暦のイスラーム暦で支障をきたしていない(暦と季節の不一致は信仰の実践の妨げにならないようである)こととは対照的に、西ヨーロッパ社会では、復活祭の日取りを正確に決定できないという理由で大胆な改暦が行われた。
また西ヨーロッパでは、年代決定に数学を応用して、史実に基づく年代学を築こうという機運が高まっていた。同時代人に「諸学問の海」などと評されたヨセフス・ユストゥス・スカリゲルは、それまでの年代学を非難し、15831年に『時間修正論』という大著を表した。彼は年代学の古典的著作の優れた写本や、入手できる限りの50種類以上の暦を収集し、可能な限り正確な暦を作り、主だった年代決定システムの相互関係を明らかにしようとした。
スカリゲルはそのために、ユリウス周期と名付けた時間の算定法を考案した。彼は当時知られていた三つの周期(28年の太陽周期、19年の太陰周期、古代ローマ帝国が定めた15年の徴税周期)を掛け合わせた積の7980年をユリウス周期とし、またキリスト誕生をこのユリウス周期の4713年と特定した。これによって、ある出来事が起きた日が三つの周期のいずれかに基づく日付で表されている場合、それをユリウス周期の起点からの日数や、他の周期に基づく日付でも表すことができる。さらに、様々な年代記を相互に関係づけることもできるのである。
しかしその後、ユリウス周期の起点以前に王朝が存在していたことを(誤って)確信したことで、スカリゲルはもう一つの周期を付け加えざるをえなくなり、ユリウス周期の包括的な整合性は失われた。一方17世紀にイエズス会士のペタヴィウスが、受肉以前は過去に向かって年を数えるやり方を導入し、こちらは社会に広く受け入れられて今日に至っている。スカリゲルのユリウス周期はだからといって廃棄されたわけではなく、通常の暦の煩雑さに苦労していた天文学者たちによって採用された。
時間を正確に計測できるようになると、人々は時間を守るという強迫観念に心を煩わせ、また時間の不可逆性を主張した。17世紀には時間は古典物理学の対象となり、ニュートンが絶対時間を定義した。
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