クロード・ベルナール『実験医学序説』三浦岱栄訳、1970年、岩波文庫 、13–97ページ。
緒論
・医学は、経験的・哲学的・体系的なものから分析的・科学的・実験的なものに進歩しつつある。そのような科学的医学は、生理学・病理学・治療学の三部門を含み、かつ生理学を一番の基礎としなければならない。また科学的医学は他の科学同様、実験的方法(観察と実験によって得られる事実に対して、推理を応用すること)に基づかなければならない。
・生物の体内で起こる複雑な現象を研究するには、まず実験の原理を提出し、それを生理学・病理学・治療学に応用しなければならない。本書は生理学・病理学・治療学の三つの見地から実験医学の原理を論じる。
第一編 実験的推理について
第一章 観察と実験について
・探究とは、我々の感覚だけを用いる簡単なものから、器械などを用いる必要がある複雑なものまであるが、我々の周囲の隠れた現象を発見・実証するための方法である。それによって我々は観察に達する。さらに我々は、観察した現象に推理を下したり事実を比較したりして吟味するが、これこそが実験と呼ばれるものである。哲学的には「観察は示し、実験は教える」と言える。
一 観察と実験の諸定義
・一般的な見解によれば、観察とは事物や現象を自然が示すままの形で検証することであり、実験とは実験家によって創作・決定された現象を検証することである。このため現象を作り出す点において、観察家は消極的であり、実験家は積極的であると言える。
・観察は予測の有無によって積極的観察と消極的観察に区別されなければならない。また実験も、実験家の実際の手の働きの有無によって積極的実験と消極的実験に区別されなければならない。
・他の定義によれば、観察とは正常で規則正しい事柄を検証することであり、実験とは、自然現象の条件が人の手によって故意に変化や障害を受けた結果を検証することである。また先程と同様に、実験における障害は、実験家の計画性の有無で区別できる。
・ここで注意をしておくと、実験を現象に加えられた変化や障害によって定義するならば、それを正常状態と比較することが言外に含まれている。実験における真の積極的要素は比較である。また結果は条件によって変化するが、背後にある法則は不変である。生理的状態と病的状態は、生命の法則が発現する条件の違いにすぎない。
二 実験を獲得し、観察を論拠とすることは、単に実験または観察をすることとは異なる
・前述の定義は、観察と実験を探索の技術としてだけ考えている点で不十分である。観察と実験においては、事実を得るための検索操作に属する部分と、事実を活用して実験的方法の論拠や規範とする知的操作に属する部分が区別されなければならない。
・「観察をする」「実験をする」と述べる場合、事実を獲得し、そこから推理によって知識を引き出せるように様々な探索・試験を試みていることを意味する。「観察の上に立ち実験を獲得する」と述べる場合、観察は推理を下す基礎であり、実験は結論を下す基礎である。観察とは事実を示すものであり、実験は何かを教えるもの、つまり事物に関する経験を与えるものである。
・我々が周囲の事物についての経験を得る方法は、経験によるものか実験によるものである。経験は漠然とした無意識的判断によって形作られるが、実験においては明瞭でよく推理されたものに組み立てられた判断を用いる。実験的方法とは、一定の規範によって周囲の事実を観察し、比較し、判断を下すことである。ただしこの規範とは、判断を検査するように(正しい経験を与えるように)規定された他の事実のことを指す。
・実験的方法において考えるべきことは、厳密な検査方法によって正確な事実を得る技術と、現象の法則を導くために、実験的推理によって事実を運用する技術である。
三 探求者について、科学的研究について
・前節では探究の積極性と消極性による定義や区別は主張できないと示した。それに基づけば、用いる研究操作の性質によって観察家と実験家を区別することはできない。観察家も実験家も、事実を証明するために、現象の複雑さに応じた研究方法を用いる探究者である。
・実験科学の進歩は探究方法の完成度によって測られる。よって実験医学の将来も、生命現象の研究に応用できる研究方法の開発にかかっている。
・科学の探究においては、簡単な操作つまり探究方法の細部が最も大切である。このことはしばしば無視されたり軽視されたりしてきたが、実験に親しまなければ生命現象に関する有望な一般論に達することはできない。
四 観察家と実験家について、観察科学と実験科学
・観察家は自分では変化させられない現象の研究のために探究方法を用いる人であり、実験家は自然現象を変化させ、自然には生まれない環境や条件でその現象を出現させるために探究方法を用いる人である。この意味で、観察は自然現象そのままの探究であり、実験は探究者によって手を加えられた現象の探究である。
・ここから、自然的観察の事実について推理する科学である観察科学と、実験家が自ら決定し創造した条件下で得た事実について推理する科学である実験科学を考えることができる。これらの区別は、現象に対して探究者が働きかけられるかどうかという点でなされる。また全ての科学は、最初は観察科学であり、現象の分析が進むと実験科学となりうる。
・実験的推理については観察科学でも実験科学でも同一であり、推理の出発点になる事実と推理の結論となる事実を、比較によって判断する。ただし観察科学では二つの事実はどちらも観察事実である一方、実験科学では、二つの事実が両方実験から借りられることも、実験と観察から同時に借りられることもある。
・観察科学は進んで実験しないという意味で消極的科学と言える一方、実験科学は物質に干渉し現象の発現を促進するため積極的科学と言える。ここで医学は観察科学でいるべきか実験科学となるべきかという問題が残るが、ここでは実験科学になるべきであると考えていると述べるに留める。
五 実験は結局惹起された観察にほかならない
・観察も実験も事実の検証である。異なるのは、実験家が検証する事実はそのままでは現れてこないため、自ら出現させなければならない点である。そこで、実験は結局、ある目的で惹起された観察にすぎないと言える。
・実験家は通常、実験的構想の価値を吟味・証明するために実験する。この場合、実験は吟味の目的で援用された観察であると言える。
・医学のような揺籃期の科学においては、実験的構想は自然には生まれてこない。よって、研究の道を開くような暗中模索的な実験を行うことを恐れてはならない。これは見るための実験と呼ぶことができる。また実証すべき予想を持たずに実験することもあるが、それは研究の方向を指示するような構想を発見するために観察を喚起するものである。これは、構想を生じさせる目的で喚起された観察であると言える。
六 実験的推理においては実験家は観察家から分離されない
・科学者は、事実に照らして検証する構想を持っていなければならないと同時に、構想の出発点あるいは吟味として役立つ事実が正当なものであると確かめなければならない。このため、科学者は観察家と実験家を兼ねていなければならない。観察家は現象をそのまま検証し、実験家は推理して実験を工夫する。
・完全な科学者は①事実を検証し、②この事実に基づいて構想を思い浮かべ、③この構想の上で推理し、実験を組み立て、条件を工夫して実現し、④実験から生まれた新現象を再び観察する。このように同一の探求者が交互に観察者となったり実験家になったりするため、実際には両者は分離できない。
・実験的方法の以上のような部分は互いに連携しており、一部だけが進歩しても実験科学としては進歩しない。しかし一切の科学的推理の原動力は構想にある。
第二章 実験的推理における先験概念と疑念について
・実験的方法の目的は、漠然とした推測や想像に基づく先験概念を、実験的研究によって証明された後験的概念に変えることである。
・実験的構想は先験概念であるが、一種の仮説の形で現れる。その価値を判断するためには、結果を実験的規範に従わせる必要がある。
・人間の精神は感情、理性、実験と進んできた。実験的方法による真理の研究においても、出発点となるのは感情であり、これが先験概念あるいは直観を生む。次に理性つまり推理が観念を発展させ、論理的結果を演繹する。そして最後に、理性は実験によって導かれる必要がある。
一 実験的真理は客観的即ち外在的である
・人間の精神には二つの真理がある。一方は意識的・内在的・主観的真理で、絶対的なものである。他方は無意識的・外在的・客観的真理で、経験的・相対的なものである。真理は関係という形式で人間の精神に現れるが、この関係は、条件が単純で全て理解可能である場合のみ絶対的なものとなる。
・数学は物の関係を理想化された単純な条件下で表しているため、その関係(原理)は絶対的真理として承認される。ここでの推理は論理的演繹によってなされるため、実験によって実証される必要はない。
・最も単純な自然現象についての実験科学も、現象の関係を人間の精神が理解できる程度に単純な条件下で表している。しかし出発点が主観的真理ではなく観察や実験から得た客観的真理にあるため、実験科学の原理は仮定的なものである。またここでの推理は論理的演繹であり、実験はなされない。
・生物学は現象の関係が複雑であるため、その原理は一時的・仮定的なものである。ここでの推理は、論理的演繹を用いていても[出発点が不確実なため]不確実であり、実験的検証が必要である。
・自然科学者や医学者が真理に近づく際に用いることができるのは実験的推理のみである。ただ、それは客観的な規範[条件]に関係付けられているため、相対的な真理しか与えない。
二 直観または感情が実験的構想を生み出す
・実験的構想や仮定は実験的推理の出発点となるもので、感情から生み出される。実験的構想が生じるためには外からの刺激つまり事物の観察が必要である。観察の結果その現象の原因に関する予測的観念[実験的構想や仮定]が思い浮かび、理性によってその観念の正否を試すような実験がなされる。仮定はできるだけ真実らしく、実験的に証明できるものでなくてはならない。
・実験的構想がどう喚起されるかは各人によって異なり、天分や周囲の知的環境に影響される。
・実験的方法は、構想を持っている人にとっては役立つが、構想を持っていない人に新たな構想を与えるものではない。良い方法は科学の発達を助け、遭遇しうる誤りの原因に注意を促す。生物学においては現象が複雑で実験の中に誤りの原因を持ち込みやすいため、方法の役割が特に重要となる。
三 実験家は疑念を発し、固定した観念を避け、またつねに精神の自由を保持しなければならない
・科学者は、事物の絶対的必然的因果関係つまりデテルミニスムが存在すること、我々の学説は知識の現状の表現にすぎず不動の真理を表しているとは言えないことの二つを信じなければならない。実験科学における推理の結果を受け入れるか議論するかについて、我々の精神は常に自由である。この自由は哲学的疑念に立脚している。
・生物学特に医学において学説は実に不完全なため、ほぼ完全な自由がある。物理学や化学では学説はより確実になるため、推理の結果により大きな重要性を認めるべきである[自由は減少する]。数学において公理や原理から出発する場合のみ、その真理は絶対必然的・意識的なため、我々は自由ではない。医者や生理学者が観察や学説を信じてよいのは、実験的検証を経た後においてだけである。
・学説に立脚した固定した思想を持っている場合、学説を確かめることだけが目的になり、発見が阻害される。また自分の学説や構想を偏重する人は、自分の学説を確証するため、あるいは他人の学説を打破するために観察を歪め、事実を誤ることになる。科学者は自由平等の精神を保持し、個人的虚栄心などの感情で見方を歪めてはならない。
・科学において構想は実験(的方法)という規範のもとに置かれなければならない。ただその規範のもとであれば、憚ることなく構想を展開すべきである。
四 実験的方法の独立的特徴
・実験的方法の特徴は、実験という規範を自らの中に持っているために、事実以外の権威から独立しているということである。よって、ある構想や学説が出されたとき、それを支持する事実だけを求めたり、それを弱める事実を遠ざけたりしてはならない。
・数学において、真理は絶対不動であるため、獲得された真理を並置することで学問が増大する。一方実験科学における真理は相対的なため、革新か、古い真理が新しいものに吸収されるかによって進歩する。実験科学においては、大学者であっても相対的な真理しか主張できないため、個人的権威を誤って尊敬することは科学の進歩の障害となる。
・実験的方法の進歩は、誤謬の総計が減少し真理の総計が増大することである。それぞれの部分的真理はより一般的真理を構成するために付け加わり、それとともに個人の名前は消え去って、学問は非個人的な形式になる。物理学と化学は既にできあがっている科学であり、実験的方法の独自性や非個性的特徴を十分反映しているが、医学は依然として経験本位であり、まだそれらを反映してはいない。
・活動の根源である感情は、実験的構想を出現させるために自発性と自由を保持しなければならない。理性は、疑念を発する自由を保ち、構想を実験の規範に置くことを要請する。そして実験が、感情の正しさや構想の有望性を確定させる。
五 実験的推理における帰納と演繹について
・推理には二つの形式がある。一方はまだ知識を持たない人が用いる探究的・質問的形式で、帰納的推理と呼ばれる。他方は既に知識を持っている人が用いる証明的・肯定的形式で、演繹的推理と呼ばれる。さらに科学的方法も二つあり、一つは実験的・物質的科学に特有な帰納的方法(帰納)、もう一つは数学に固有な演繹的方法(演繹)である。我々が従事すべき実験的推理の形式は帰納法である。
・しかし実際に帰納と演繹を明確に分けるのは困難であり、また帰納的推理と演繹的推理はどちらもあらゆる科学に属している。人は既知の事柄を足がかりにして未知の事柄に進むが、いかなる科学においても未知の事柄と既知の事柄は両方とも存在している。そして科学の基礎としての原理や学説は、必ず帰納的推理から得られたものである。数学者も自然科学者も、原理を得るにあたっては帰納を使用し、原理から出発する際には三段論法によって演繹するが、原理の確実性が異なるために演繹の結果の確実性も異なる。
・現象を見た際個々の事実に関して思い浮かぶ先験概念は、実は我々がそれを帰着させようとする原理を含んでいる。そのため我々が帰納していると思っているときでも、実際は演繹していると言える。事実が集まれば集まるほど原理も一般的かつ確実になるが、その原理はあくまで一時的なものである。
六 実験的推理における疑念について
・実験的法則の基礎の一つは、出発点あるいは原理が絶対的真理でないときには、推理の結論は常に疑問としなければならないということ(疑念)である。実験的推理はスコラ哲学的推理の逆である。
・ベーコンの帰納論は科学概論の基礎だと考えられているが、彼は科学者でなく、実験的方法の機構も理解しなかった。ガリレオやトリチェリのような大実験家は帰納法のような法則に先立って出現していた。またデカルトはベーコンのものよりはるかに実際的な、実験を喚起するのは疑問のみであるという掟を述べている。
・医学や生理学に関する場合、懐疑主義と科学的疑念を区別し、この疑念をどこまで推し進めるべきかを決定しなければならない。懐疑家は科学を信じずに自分を信じるが、真の科学者は自分や自分の解釈を疑う一方科学を信じ、現象には一定不変の物質的条件があるという現象のデテルミニスムも承認する。
・実験家の仮定は、実験によって否定される場合と肯定される場合がありうる。前者の場合実験家は自己の構想を放棄するか変更しなければならない。しかし後者の場合でも、直接意識に上らない真理に関する以上、実験家は反対証明を要求しなければならない。
七 実験的規範の原理について
・実験家は出発点となる先験概念または学説を疑わなければならないため、構想を実験的規範に置くことは絶対的な掟である。この実験的規範の基礎は理性のみである。事実は実験的構想に形式を与え、また批判として役立つが、これは理性がそれを承認するという条件のもとで可能となるためである。
・実験的真理は自然現象の複雑さの中にあるが、それでも絶対的な原理に基づいている。これは現象の条件における意識的必然的デテルミニスムであって、実験とは独立した数学的・絶対的なものである。
・実験科学においては事物の関係が複雑な現象の中にあり、我々はこれをより簡単な関係や条件に導くため、実験で現象を分析解体する。この分析こそ我々の唯一の手段であり、デテルミニスムは我々を導く原則である。
・従って、もしある実験において現象が必然的な条件に結びつけられないほど矛盾した形で現れた場合、しばらく様子を見るか、観察に入り込んだ誤りの原因を実験によって探さなければならない。存在条件を決定できない事実を認めることは、デテルミニスムの否定、つまり科学の否定である。
八 証明と反対証明について
・与えられた条件がある現象の近接原因であることを結論するためには、その条件がなければ現象が生じないことを確かめなければならない。この反対証明は、実験的推理の本質的必然的特徴であり、極端まで推し進められた哲学的疑念である。
・反対証明(反対実験)と比較実験を混同してはならない。比較実験は、現象を簡単にし、誤りの原因に対して警戒するために援用される比較観察である。一方反対証明は、実験の結論を出す際に必要な一部分を作っている反対判断である。反対証明の重要性は物理学や化学では十分知られているが、医学では全く理解されていない。
・実験的推理は、デテルミニスムに達するという、全ての科学に共通の目的を目指している。つまり推理と実験によって、自然現象をその存在条件あるいは近接原因に結びつけようとしている。
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