アルフレッド・W. クロスビー『数量化革命--ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』小沢千重子訳、紀伊國屋書店、2003年、129–145ページ。
第1部 数量化という革命--汎測量術(パントメトリー)の誕生
第5章 空間--地図・海図と天文学
西ヨーロッパ人の空間認識の変化は、時間認識の変化ほど急激なものではなく、当初は遅々としていた。しかしそれはやがて、20世紀初頭の物理学における変化に匹敵するほどラディカルな様相を呈するようになった。
アジアから羅針儀が伝えられると、船乗りたちは冬季にも長距離公開に挑むようになったが、その際羅針儀の示す針路が正しいかを確かめる必要があった。やがて羅針路を引けるような実用的な沿岸航海図が作られ、ポルトラノ海図と呼ばれた。現存する最古のポルトラノ海図は1296年、つまり最初の機械時計が作られたとされる期間の間に作られたものである。この海図には海岸線とその周辺の水域、数カ所に描かれた方位盤(コンパス・ローズ)から引かれた方位線(羅針路)が記載されており、陸地間の距離が短い水域に関しては記述が正確で、十分に目的を果たしていた。しかし長距離の航海となると、ポルトラノ海図は船乗りに錯覚を起こさせる危険性があった。そのため、方向と距離だけでなく名遺跡と形状も正確に表現できる地図の開発が始まった。
西暦1400年頃、プトレマイオスの『地理学』の写本がフィレンツェにもたらされた。この書物は、時間認識の変化において脱進機が果たした役割を、空間認識の変化において果たすことになった。プトレマイオスは、諸々の天体の位置に基づいて計算した直交座標系を地球に当てはめ、地球の表面をニュートラルな空間として扱った。15世紀のヨーロッパ人は、地球を平面上に描くための数学的に矛盾のない投影図法を、『地理学』によって三つ知ることができた。そして16世紀までに、プトレマイオスの投影図法は西ヨーロッパの地図製作者の間に浸透した。
西ヨーロッパの地図制作術の歴史は、やみくもに進む実践に理論が追いつこうとするものである。これと並行する天文学(占星術)の歴史は逆に、言葉で表現された捉えどころのない理論に、正確な観測と計算によって実践が追いつこうとするものである。
「敬うべきモデル」が提示した宇宙像は、比較的自由な発想をするスコラ学者にとっては、限定的で品位に欠けるものだった(なぜ神は宇宙の中心に地球を据えたりするのか、安定が運動より高貴ならなぜ諸々の天体が回転して卑しいはずの地球が静止しているのか)。ニコル・オレームは、天体と地球のどちらが回転しているのかは理性では判断できないとして、議論を地動説の方に進めたが、最終的に自らの思弁を「気晴らし」として引き下がった。
15世紀、マルシリオ・フィチーノらは、古典古代の神秘的要素に耽溺するとともに、数学に傾倒した。神の啓示が象徴的・神秘的に下されることは確実だが、神はそれを数量化できる次元で示すだろうと彼らは主張した。またドイツ人のレギオモンタヌスは、古典古代の数学者の著作を翻訳・出版し、また自身を含むの当代の数学者の著作も出版した。彼は綿密な天体観測を行い、天体の運動に関する表や書物を著した。
そしてニコラウス・クザーヌスは、宇宙は神以外の全てを包含し、その宇宙を神が包含していると見なし、さらに宇宙はどの部分も性質や成分は等しいとした。またアリストテレスやスコラ学者による定性分析の手法に代わる新たな道具を、数量化の中に見出した。彼は複雑な問題を単純化し、自らは実験をしないという点ではスコラ学者的であったが、彼のものの見方は、西ヨーロッパにおいて定性的な観点から定量的な観点に世界の見方が移行し始めていたことを示している。
彼らのような思想家が「敬うべきモデル」で提示されているような宇宙概念から距離を置くにつれて、彼らの影響力は低下していった。16世紀が始まる頃、「敬うべきモデル」の宇宙像は揺るぎないものと思われていたのである。
そんな中ニコラウス・コペルニクスは、そのような宇宙像をひっくり返し、宇宙の中心に地球ではなく太陽を据えた。彼はこれをオレームやクザーヌスと同じような論拠を挙げて正当化したが、彼が他の人物と異なっていたのは、主に数学によって自分の論理を表現した最初の理論家であったという点である。彼の『天球の回転について』は、ほとんどのページが数式で埋まっている。
コペルニクス革命の影響は測り知れないほど大きかった。それは、地球を宇宙の中心から引きずり下ろしたからだけでなく、空間そのものの量と質について新たな概念を提示したからである。旧来の宇宙像では、恒星と地球の距離は遠く離れてはいるものの、第2章で述べたように、その距離は人間の次元で表現できるスケールと考えられていた。しかしコペルニクスの宇宙像では、地球と恒星間の距離は想像を絶するほど長く、また宇宙の容積も従来の想定より少なくとも40万倍大きいとされた。
もし空間が均質かつ計測可能であり、数学的に分析できるものなら、人間の知性が及ぶ空間は大幅に拡大する。そのような例を二つ挙げよう。
1490年代、スペインとポルトガルは非キリスト教世界の統治権をめぐって争っており、異郷の地に境界線を引く必要があった。両国は1493年にトルデシーリャス条約を、1529年にサラゴサ条約を締結したが、そこで境界線を定める際には経度による計算が用いられた。この境界線は、ルネサンス期のヨーロッパ人が地球の表面を一様かつ均質であると見なしていたことを裏付けている。
また、1572年、世界中の人々が新しい星を目撃したが、天文学者のチコ・ブラーエはこの星とカシオペア座の9個の星の角距離を計算し、明るさや色の変化を記録し続けた。ブラーエの極めて正確な観測によって、この星と恒星の位置関係は全く変わっていないことが判明した。従って、この新しい星は定説に反して、月下界ではなく、恒星の天球に存在していることが示された。さらに1577年に大きな彗星が現れた際も、ブラーエは精密な観測を行い、彗星が月下界の外(地球と月の距離の約6倍離れたところ)に存在し、また彗星の軌道が完全な縁ではなく楕円を描いていることを示した。これによって2000年近く信じられてきた天球は、存在を否定された。
このように、16世紀末までに「敬うべきモデル」が提示した空間概念は崩壊し、ニュートンの「絶対空間」という新たな空間概念が登場した。それは均質かつ計測可能な古典物理学の空間であり、道徳規準をもたない空虚な空間であった。
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