2016年10月6日木曜日

プロイセンにおける統計の公表と秘匿 ハッキング(1999)第3章

イアン・ハッキング『偶然を飼いならす--統計学と第二次科学革命』石原英樹・重田園江訳、木鐸社、1999年、26–40ページ。

3章 アマチュアは公表し、官僚は秘匿する

 すべての国家はそれぞれの仕方で統計調査を行っていた。空想家、会計士、軍人が、様々な時期に様々な場所でセンサスを行ったが、近代のセンサスの多くは祖国よりも植民地で多く行われた。それぞれの国家や植民地について興味深い経緯が存在する(例えばカナダ、アメリカなど)が、「19世紀の統計学は、各国の抱えていた諸問題、傷、絶え間ない苦悩についての証言である」 と主張することができるだろう。 
 本章では、1820年すぎに起きた〈数字の洪水〉だけに囚われないために、それに先行するドイツ語圏、特にプロイセンの例から話を始めることにする。国民国家が自らとその力を定義するためには統計局が必要であることに逸早く気づいたのが、ドイツの思想家と国家官僚だったためである。 
 ライプニッツは公式プロイセン統計学の哲学上のトップであり、1685年に中央統計局を設立する考えを固めた。彼は中央統計局が死亡、洗礼、婚姻の記録を集中的に管理することで、様々な行政部門(軍事、民事、鉱業、森林管理、警察)に役立つと考えた。しかし完全な実査enumerationは未だに非現実的なものだった。また彼は国家について56のカテゴリー(男女別人口、社会的地位別人口、武器を持てる男性の数、結婚可能な女性の数、など)で評価することを提案したが、こちらも現実離れしたものだった。 
 ブランデンブルグ・プロイセン王国が1701年に成立したが、当時統計局は存在していなかった。プロイセンにおける実査の動きが始まったのは、フリードリヒ・ヴィルヘルムⅠ世(在位1713–40)の治世になってからであり、彼の官僚たちはまず〈数え上げる〉ための方法を確立しなければならなかった。 
 制度の改革はゆっくりとしか進まなかった。まずブランデンブルグ・プロイセンの四地域において出生、死亡、婚姻記録のための制度が作られ、1719年には(失敗したものの)完全な実査が試みられた。様々な報告体系が試され、集計結果の初の要約は1723年に出版された。1730年までには、人々は九つのカテゴリー(家長、女主人、男児、女児など)に分類され、労働者は24の職業に分類され、建物の分類や家畜なども記述されるようになった。これらの数字は、敵に知られると危険なため国家機密とされた。 

 官製統計は、18世紀は公表が恐れられたが、19世紀には逆に公表が進められた。18世紀に公表されたのは、民間人によって集められた数値だった。編集者にして地理学者、そして旅行家でもあったA. F. ビューイングは、ドイツ諸邦とその近隣の統計情報を満載した二冊の雑誌を刊行した。またゲーテやベルヌイは、旅行記に何でも数えて記録した。 
 18世紀半ばのドイツにおける最も体系的な民間統計はJ. P. ジュースミルヒの『神の秩序』であり、教区の記録や他の未使用のデータを用いて、神の摂理を示す出生、死亡、性比について詳細に記述してある。彼はこの世界の事物の配置そのものが創造主の存在を証明しているという考えに立つ、自然宗教の擁護者であった(出生率を自然神学的に解釈する伝統はイギリス政治算術に始まる)。『神の秩序』は三版を重ね(二版は王室のお墨付きだった)、教区の記録と死亡統計を合わせた膨大な事実の堆積物となった。この著作は、都市で年々死亡率が上昇しているのは不衛生ではなく悪徳のせいだとするなど直接道徳を説いたものだったが、人口調節についてのモデルを用いた分析も見られる。 
 ジュースミルヒはフーコーのバイオポリティクス(生-政治学)に絶え間なく登場した。バイオポリティクスは「社会集団全体を標的とする包括的な測定、統計的な査定、介入を生み出した」ものであり、身体すなわち「生物学的過程、つまり生殖、出生と死亡率、健康状態、平均余命と寿命」に焦点を当てたアナトモポリティクス(解剖-政治学)と対になっていた。しかしフーコーのこの二極化はこの文脈では見出せない。なぜならジュースミルヒの統計的な査定(バイオポリティクス)は、生殖、出生、死亡、健康、平均余命(アナトモポリティクス)と直結していたからである。 
 ドイツのバイオポリティクスは七年戦争(1757–63)の後に本格的に始まったが、そこで話題になったのは人口減少だった。プロイセン統計の特徴の多くはそれへの関心とともに生まれ、フリードリヒ大王の作った熱狂的で自己目的化した官僚制度によって極端なものとなった。 
 彼の治世下で〈数え上げ〉られた事物のカテゴリーのリストは7ページに及んだ。その多くは同じような段階にある他国でも見られるものだったが、新しい試みも存在した。一つは、人口が民間人か軍人かで分けられたことである。人々は地理的な範囲で〈数え上げ〉られていたが、民間人が一箇所に留まることが多いのに対して、軍人は移動したり駐屯地にいることが多いためである。性別分類より市民の分類の方が基本だと見なしたのはプロイセンだけであった。そしてもう一つは、移入民、移出民、国籍別、人種別の統計表が初めて作られたことである。ユダヤ人は1745年に統計表に現れたが、当時は宗教的集団としては扱われていなかった。まもなくユダヤ人は他と完全に切り離された形で定期的な実査が行われるようになった。 

 公式統計の体系の進展は熱狂的なアマチュアによる統計数字の公刊と並行していたが、ドイツ統計学には第三の勢力があり、「大学統計学」と呼ばれていた。イェナ大学の政治学と地理学の教授であったヘルマン・コンリングがその創始者と呼ばれるにふさわしいとされている。またゲッティンゲンのゴットフリート・アッヘンワールは「Statistik」という言葉を確立し、彼がそう呼んだものを「国家についての顕著な事実」を集めることだと考えた。 
 彼らの研究の大部分は定量的なものではなく、むしろ彼らは数字や計算に反感を持っていた。しかし彼らの調査と、例えばビューシングの雑誌の内容には本質的な連続性があるように思われる。ビューシングは徹底的に数字的(統計学的)だったが、背表紙などでは歴史学者-地理学者、つまりアッヘンワールの意味での統計学者だと自称しているのである。 
 19世紀には大きく分けて、大学統計学者の記述的で非数量的な科学と、イギリス政治算術の系譜にある(ドイツではジュースミルヒによって始まった)科学の二つが、統計学という名称の下に存在していた。大学統計学は統計学という言葉を確立したこと以外に統計に関係しないように思われるが、それは過小評価である。プロイセンの統計官僚は数量を扱っていたものの、その統計表は大学統計学者の表に似ており、言葉の代わりに数字があるにすぎなかった。プロイセン官僚は、フリードリヒ大王の閣僚の官僚的熟練と数字のアマチュアの手腕を引き継いでいたとともに、大学統計学の後継者でもあった。 

 ゲーテやベルヌイの旅行記は、イギリスやフランスとは比べものにならないくらい数字への熱狂を伴っていた。アーサー・ヤングのようなイギリスからの旅行者たちは、農業技術だけでなく、数字への熱狂も西側に持ち込んだ。「statistics」という言葉をイギリスに持ち込んだのは、スコットランドの偉大な農業改革者ジョン・シンクレア卿である。彼はドイツから統計についての教えも受け、それはスコットランドを超えて広められた。

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