2016年10月6日木曜日

数学の記号体系と数字の意味の変化 クロスビー(2003)第6章

アルフレッド・W. クロスビー『数量化革命--ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』小沢千重子訳、紀伊國屋書店、2003年、147–169ページ。

第1部 数量化という革命--汎測量術(パントメトリー)の誕生

第6章 数学

 中世後期からルネサンス期にかけて、西ヨーロッパ人は絶対的な時間と空間という概念を検証し始めたが、これらの概念の優れた点は、絶対性という特性に永続性と普遍性という特性が包摂されていることである。そのため絶対的な時間や空間を計測し、その結果を分析・処理することは有意義な試みだと見なされた。計測という行為は事物を数字によって表現することであり、数字を処理するという行為は数学に他ならない。
 事物を数学的に考察し、物質的な現実世界の研究に数学を応用するという姿勢が速やかに進展するための条件は、この頃かなりの程度まで整っていた。しかし数学そのものが速やかに進展するための条件はまだ整っていなかった。数学は、その記号も技法も十分発達しておらず、また時間や空間という概念と同じくらい均質だとは見なされていなかった。そして数と数の概念は未だ非数学的な意味合いを帯びていた。

 第2章で述べたように、ローマ数字で大きな数を表したり込み入った計算をするのは極めて困難だった。またローマ数字はローマ字を借用しているため、数字と文字が入り混じって混乱が生じるのは避けられなかった。計算盤はこうした状況を克服するのに役立ったものの、特有の短所ももっていた。非常に大きな数と非常に小さな数を同時に処理できず、記録するための機能を備えておらず、また検算ができなかったのである。
 いわゆるアラビア数字(ここではインド・アラビア数字と呼ぶ)は、9世紀のムスリムの学者・著述家であるアル・フワーリズミーの著作がスペインまで達したことで、西ヨーロッパに浸透し始めた。12世紀にはこれがラテン語に訳され、それ以降影響力をもち続けることになった。インド・アラビア記数法では10個の数字でどんな数でも表現でき、計算(筆算と呼ばれた)では全過程が書き残されるため容易に検算でき、計算と記録を同じ数字で行えた。しかしこの新たな記数法を使いこなすには、桁の値とゼロという記号を理解しなければならなかった。桁の値は直感的に把握するのが難しく、またゼロという記号は存在しないことを表すため人々を不安にさせた。ヨーロッパ人がゼロを一つの実数として受け入れるまでには数百年を要した。
 ローマ記数法からインド・アラビア記数法への移行は、紆余曲折を経たゆっくりとしたものだった。西ヨーロッパ人は何世代もの間、様々な記数法を併用し続けた。インド・アラビア数字がローマ数字に勝利するまでには極めて長い時間を要したため、その年を特定することはできない(1500年から1600年の間であることは確かである)。それでもこの変化は重大であった。当時西ヨーロッパの人々は、超国家的・超地域的な言語であるラテン語に代わって各々の母国語を用いるようになっていた一方で、インド・アラビア数字およびそれを用いた計算法という普遍的な言語を採用したのである。

 新たな記数法の採用に続いて、演算の表記法にも変化が訪れた。最も単純な演算記号である+と−の西ヨーロッパへの導入は、インド・アラビア数字よりかなり遅れてのことだった。13世紀の時点で、数同士の関係や演算は言葉で表現されていたが、明瞭さを欠いていた。15世紀後半には、イタリア人が加算と減算を表すために、pやmの上に¯を描いた記号や単語の短縮形を用いていたが、これも代数式で用いられると混乱を招いた。+と−の記号は、1489年にドイツで初めて用いられ、16世紀を通じてイタリアの記号と競合し、フランスの代数学者たちに採用されたことで勝利を収めた。また等号の=は、16世紀半ばにイギリスで発明されたと考えられる。さらに中世以降、乗法記号×は様々な意味合いで使われていた上に、代数式で文字と併用されると混乱が生じやすかった。そのため代数学者は乗法記号を省略するか点(・)で代用した一方、算術家の間では乗法記号を×とする合意は得られなかった。除法記号÷は−に似ていたので混同する恐れがあるとされた。乗法記号と除法記号は未だに表記法が統一されていない。
 15世紀に商人はしばしば複雑な分数を扱わなければならなかったが、彼らを救ったのは十進小数法だった。小数の萌芽は13世紀に現れていたが、シモン・ステヴィンが1585年に『十分の一』で十進小数の体系を詳説し、明確な表記法を一つ提示するまで、実用的な表記法は現れなかった。現在の小数の表記法が出現したのは17世紀で、今日まで普遍的な表記法は確立されていないが、小数がいずれかの形で表記できていることの恩恵は大きい。
 インドとアラビアの代数学者は、xやyのような記号を用いず、単語やその省略形を用いていた。その後しばらく、単語・その省略形・数字を併用して代数式を表記するという状況が続いた。やがてフランスの代数学者たちが、代数的量を表す記号として文字を系統的に用いる方法を開拓し始めた。フランソワ・ヴィエトは16世紀後半に未知数を母音文字で、既知数を子音文字で表記するシステムを使用した。17世紀にはデカルトがこれを整理し、AやBなどアルファベットのはじめの方の文字で既知数を表し、XやYなど終わりの方の文字で未知数を表記する表記法を確立した。門外漢にとって代数の表記法は混乱を招く厄介なものだったが、代数学者は記号の意味内容を無視してその操作に集中できるようになり、優れた業績があげられるようになった。

 数学の記号体系が充実するのと並行して、数字の意味に対する認識も変化した。数とは量を表す記号であって、いかなる性質も帯びていないために有用なのである。しかし中世とルネサンス期の西ヨーロッパにおいて、数字は数量を超越したメッセージの源泉だった。ロジャー・ベーコンは数字に基づいてイスラームの衰退を予測しようとしていたが、彼にとっては数そのものより数が担うメッセージの方を重要視していた(彼にとっては693と663は獣=反キリストを示すという意味で同じものだった)。数学の栄光は、物事を明確にするという特性によってベーコンのような詭弁を暴くことや、物事を普遍化するという特性によって、宇宙の本質のような謎の解明の解明に人間を誘うことである。
 現実世界は数学的に構成されているという我々の信念は、科学および現代文明のほとんどの構成要素が発展するための必要条件であるが、同時に我々の美意識を満足させ我々を虜にするものでもある。プラトンや仏教の僧、キリスト教の教父、さらに時代を下るとロジャー・ベーコンやピエロ・デラ・フランチェスカらが、数字に神秘的な意味を見出していた。
 釈迦を生んだインドは今まで極めて多くの純粋数学者を排出している一方で、純粋なものを求めるジョン・ディーを生んだ西洋では、多くの応用物理学者やエンジニア、会計士を世に送ってきた。この理由を、西ヨーロッパでは実用的な数学が発展するにつれて数秘主義が衰退したからだと考えるのは誤っている。数と計算に基づいた占いは、ルネサンスと宗教改革によってむしろ活気づいたように思われる。その頃若きヨハネス・ケプラーは、プラトン立体に心を奪われ、これで宇宙の構造を説明できると考えた。緻密な観測と記録から彼の仮説は誤っていることが判明したが、彼は諦めずに、立てた理論の全てについて計算を繰り返し、その成否を検討した。この努力によって彼は惑星の運動に関する三つの法則を発見したのである。

 

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