2016年11月30日水曜日

異兆としての奇形 Daston and Park(1998)第5章

Lorraine Daston and Katharine Park, 1998, Wonders and the Order of Nature, 11501750 (New York: Zone Books).

Chapter  5. Monsters: A Case Study 前半 (pp. 17390) 

Introduction (pp. 1737)   
(1) 15世紀末から16世紀のヨーロッパ人たちの多くは、彼らの時代が以前より質的にも量的にも驚異に満ちていたwondrousと考えていた(ブロードサイドの例:p. 174、図5.1 
(2) 中世のヨーロッパ人たちにとって自然の異兆は世界の辺境(アイルランド・アフリカ・アジアの植物・動物・鉱物)と結びついていたが、ルネサンス期には、それらは地中海とヨーロッパの中心に移行した。またそれに伴って異兆の特徴も変化している。異兆の典型例は、中世においてはブレミーやバジリスクなどの外国の種族exotic raceだったが、15世紀末から16世紀においては双頭の赤ん坊・人間と動物のハイブリッド・結合した双子だった。 
(3) 異兆の地理的な分布が変化したことは探検のみに由来するわけではない。そのような変化は探検が始まったばかりの1490年代半ばには既に指摘されていた。もし仮にそうだとしても、個々の異兆(怪物だけでなく地震や火山の噴火なども)が強調されていたことが説明できない。 
(4) 1章で論じたように、この種の個々の異兆は外国の種族とは異なった伝統と意味を持っている。外国の種族の伝統は、1516世紀にかけて、これまでの章で述べたような文化的文脈・重圧の中で発展・変化してきた。一方それは、1500年頃には、異兆の伝統の劇的な出現によって豊かになり、洗練された。 
(5) なぜ(外国の種だけでなく個々の異兆も含む)全ての異兆は、初期近代のヨーロッパ人の意識に入り込んだのだろうか? 本章では奇形の誕生という異兆に着目して、初期近代の異兆への没入の軌跡を追うこととする。奇形を神のしるしやlusus naturaeと見なす説明は17世紀末まで見られる一方で、自然化(異兆を自然の原因で説明すること)は中世においてもなされていたのである。 
(6) ここでは、解釈と感情の三つの複合物(恐怖・楽しさ・嫌悪)を見ていく。本章の最後の部分では、奇形いに対する宗教的な応答を自然主義的な解釈に先行しかつ劣ったものとする見方の起源を歴史的に論じる。異兆の自然化は17世紀末の知識人が全員一致で作り上げた幻想であり、異兆の自然化への動きよりむしろ、知識人の一致団結の方に説明が必要である。 
(7) これ以降、前述の三つの複合物を順に論じていく。最初のもの[恐怖]においては、怪物は神の憤怒のしるしであり恐怖を引き起こす。次のもの[楽しさ]においては、怪物は温和な自然と慈悲深い神の装飾の戯れとされる。最後のもの[嫌悪]においては、怪物は医学・哲学・神学で冷淡さや嫌悪の対象である。 
    
Horror: Monsters as Prodigies  (pp.  17790)   
(1) 15123月、フィレンツェの薬剤師ルカ・ランドゥッチ(Luca Lunducci, 14361516)は、自身の日記にラヴェンナで誕生している奇形について書いている(p. 1778、図5.2)。その18日後、ラヴェンナはローマ教皇軍・スペイン軍・フランス軍の連合軍に略奪されたが、彼は奇形がその前兆だったと考えていた。 
(2) ランドゥッチの日記は、1章で述べた結合した双子に対する反応を思い起こさせる。その双子も不幸の前兆と考えられていた。どちらの奇形に関する知らせもすぐに手紙や絵、口づてで広められた。 
(3) しかしランドゥッチの反応には、従来見られなかった重要な要素が含まれている。まず、ラヴェンナの奇形の知らせは以前より速く広く伝えられた。そして、ラヴェンナの奇形は独立した事例ではなく、多くの奇形の誕生や他の異兆の一つだった。 
(4) 奇形や異兆の文化は15世紀後半のドイツとイタリアで急増したが、それは特定の政治的・宗教的・軍事的な出来事と関連していた。どちらの国の場合も、帝国や教皇の政治評論家は、広く行き渡った異兆の文化を参考にし、それを活気づけるようなパンフレットやブロードサイドを、洪水のごとく生み出した。 
(5) どの社会においても、異兆や[それに基づいた]予言の文化は一つの階級や集団に限られたものではなく、博学な人文主義者や都市の商人・職人、また小作農や肉体労働者などの文字が読めない人々にも共有されていた。「予言のしるしのシステム」を構成する情報や想定は社会における多様な場所に広まっていた。 
(6) 印刷されたパンフレットやブロードサイドは、長さや精巧さにおいて様々だった。単に記述的なものもあれば(p. 178、図5.2.2)、道徳的な説明や寓意に満ちているものもあった(p. 174、図5.1)。しかし[奇形]誕生が引き起こす感情についての記述はほぼ全てのもので一致している。それは激しい恐怖だった。 
(7) この恐怖は単にカテゴリーが混同されていること(動物と人間、男性と女性など[のハイブリッドであること])に由来しているのではなく、むしろ道徳的な規範に背いたことに基づいている。ヨーロッパのキリスト教徒は、奇形を、人間の罪に対する神の罰だと捉えていた。 
(8) 奇形の誕生の注釈者の多くは、近づいている災厄を知らせることしかしなかったが、神の怒りを引き起こした罪を推測し、それを奇形の外形と結びつける者もいた。 
(9) 奇形の外形が重要であったことは、奇形の誕生についての記録の多くが図像を伴っている理由を説明する。それらの図像は、同時代に記憶のために用いられた図像(p. 178、図5.2.3)や、異教徒の偶像や悪魔(pp.1845、図5.3)を思い起こさせる。それによって奇形の誕生は罪や罰との結びつきを強めている。 
(10) 同時に、奇形や他の異兆の図像は、記録の権威やその感情的な影響を強めている。図像によって、直接目撃していない人でも[奇形の]誕生の恐怖を経験することができる。目撃者や場所・日時への言及は同様の効果を狙っていると考えられる(p. 186、図5.4)。 
(11) 16世紀の異兆についての専門書を著した人々は、異兆をより詳細に探究した。最も影響力があったものの一つは、アルザスの人文主義者かつプロテスタント学者のコンラート・ヴォルフハルト(Konrad Wolffhart, 15181561、ギリシャ名のリュコステネスLycosthenesとして知られている)のProdigiorum ac ostentorum chronicon1557)である。 
(12) リュコステネスにとって創造は統一であり、道徳の世界を反映して物質の世界が創られている。人間の罪が道徳的秩序の不和であるのと同様、異兆は物質的秩序の不和である。 
(13) リュコステネスは他の書き手と同様に、奇形や他の前兆の多くが自然の原因を持つことを否定しない。一方で彼はそのような原因を決定するのは困難であり、彼はそれを重視しないと述べている。 
(14) 16世紀の異兆の書き手たちの大半はこのような考え方に同意していたが、時が経つにつれて彼らの分析の方向には、それとは別の変化があった。奇形に読み込む罪の種類が変わったのである(ソドミー・貪欲・高慢・世俗的であること不敬・宗教的過ち・異端・陰謀・扇動)。この変化は、宗教改革期の社会の宗教的・政治的緊張を含んだ雰囲気を反映している。16世紀半ばの書き手たちは、奇形や他の異兆が頻発していることを終末論の枠組みで理解し、世界の終わりが差し迫っていると考えていた。 
(15) 初期近代のキリスト教徒による異兆の解釈は外部の出来事と密接に結びついていたため、17世紀末まで奇形や他の異兆の「自然化」「合理化」の明確なパターンを見つけるのは難しい。奇形を前兆と解釈し恐怖の対象とする見方は、ゆっくりと消えていくのではなく、特定の地域の状況に対応して再び目立ってきた。 
(16) ドイツは、イタリアと同様15世紀末に奇形に夢中になったが、その関心は17世紀まで続いた。この期間、奇形の文化的意味付けは状況とともに変化していった。1520年代はじめの、マルティン・ルターの賛同者と反対者の戦争の中で出されたパンフレットには、修道士と教皇の堕落への神の叱責を表す二つの奇形が描かれている(p. 188、図5.5)。シュマルカルデン戦争や三十年戦争の間にも多くの異兆が記録された。一方フランスとイングランドにおいて異兆は、フランスの宗教戦争やエリザベス女王の即位、イギリス大内乱の文脈で、156070年代に栄えた。 
(17) 6巻のHistoires prodigeuses[『異兆誌』]は、奇形に関する著述に対する政治的・宗教的状況の影響を網羅的に扱っている。最初の2巻(1560, 1567)は奇形や他の異兆を神の罰と結びつけているが(p. 184、図5.3.1)、それほど不吉でない他の解釈も提示している。 
(18) 同書の35巻は157582年に出されたが、この時期はフランスの宗教戦争の絶頂であった。それによれば全ての奇形は異兆であり、キリスト教徒に悔い改めるよう忠告するために神が遣わしたものである。一方6巻は、戦争が一時中断されている1594年に出されており、それまでの巻が読者を退屈させたのではないかと述べ、異兆の描写で読者を楽しませることを約束している。つまりこの巻は、異兆が恐怖だけでなく楽しさも引き起こすことを示している。 

2016年11月7日月曜日

西ヨーロッパ繁栄の背景 クロスビー(2003)第11章

アルフレッド・W. クロスビー『数量化革命--ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』小沢千重子訳、紀伊國屋書店、2003年、287–302ページ。

第3部 エピローグ

第11章 「新しいモデル」

 西ヨーロッパの人々は、西暦1300年前後の数十年の間から、現実世界を視覚的・数量的に認知する新たな枠組みを発展させてきた。
 視覚を重視することがもたらした恩恵の最たるものは、目に見える事物・現象と、それを均一な単位量を用いて計測した結果が一致しているという認識であった。新たな枠組みにおけるアプローチでは、まず考察対象を、その本質を明確に示す最小の要素まで還元し、それを紙に書いて見えるようにするか頭の中で思い描く。そしてそれを均一な単位量に分割し、その数を数える。そうすることで対象を計測したことになる、つまり数量的に表現できるようになる。このようにして初めて、厳密な考察や実験が可能になる。
 当時の西ヨーロッパは、機械類の発明や利用の分野では世界をリードしていたものの、その差は決して大きくなかった上に、それ以外のいくつかの分野では未だに遅れを取っていた。しかしながら、現実世界を認知する枠組みを作り、それに基づいて世界の合理的な解釈や操作を可能にした点で、西ヨーロッパは他を大きく引き離していた。現代文化の合理的特性は視覚化および数量化と関連がある、あるいはその傾向があると言える。

 印刷術は、視覚化の威信を高め、数量化の普及を加速させた。西ヨーロッパでは1400年代〜1500年代にかけて、科学や工業技術分野の挿絵の芸術性が最初のピークを迎えたが、印刷術の発明によって、技術に関する正確な挿絵の有用性・重要性が急激に高まった(複雑・精緻な図を手で模写することは難しいが、印刷機を使えば完璧なコピーをいくらでも作れた)。印刷された技術に関する挿絵は、16世紀後半〜17世紀の科学革命でも重要な役割を果たした。科学革命においては極めて多くの事柄が視覚的に表現されているためである。

 ルネサンス遠近法は、現実世界を正確に描写する手法だけでなく、一定のルールのもとで現実世界を変形させる方法を示した。その一つであるメルカトル図法は、視覚化と数量化を巧みに結合させた16世紀最大の傑作である。
 西ヨーロッパの船乗りは(特に長距離の)航海のために、丸い地球を平面の海図に書き、実際には曲線を描く航程線を海図上に直定規で引く必要に迫られていた。フラマン人地図製作者ゲラルドゥス・メルカトルによって1569年に印刷された世界地図は、(実際には両極で収束する曲線である)経線を緯線と同様に平行線として描いたため、極地方の面積が極端に大きくなった。また極に近づくにつれて経線間の距離を人為的に増したのと同じ比率で緯線間の距離も長くしたため、実像はさらに大きく歪められた。しかしこの地図の上には航程線を真っ直ぐに引くことができた。
 メルカトルは船乗りの便宜のために空間の広がりを極度に歪めており、視覚化の実践における離れ業と言える。彼はこの投影図法の数学的理論を解説した著述を残しておらず、その理論はイギリス人のエドワード・ライトによって1599年に示された。

 16世紀の西ヨーロッパ社会は比類ない存在だったが、その裏には宗教戦争や無差別の破壊行為など社会の不安定さが存在していた。彼らは生き延び発展するに至ったが、彼らが旧来のモデルの欠陥を補うために生み出した「新しいモデル」は、現実世界を検証する新たなアプローチと現実世界を認知する新たな枠組みを提供した。やがて「新しいモデル」は並外れて確実であることが判明し、人類に強大な力と宇宙の本質を理解できるという信念を与えた。

2016年11月3日木曜日

複式簿記と商取引の可視化 クロスビー(2003)第10章

アルフレッド・W. クロスビー『数量化革命--ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』小沢千重子訳、紀伊國屋書店、2003年、253–283ページ。

第2部 視覚化--革命の十分条件

第10章 簿記

 商人は西ヨーロッパ社会を資本主義に誘導し、ビジネスライクに行動する意義を人々に教えた。ビジネスライクとは注意深さと綿密さ、そして数字を扱うことである。商人にとっての数字とは金に他ならない。商人が携わる取引は様々な要素が複雑に入り組んでいたため、彼らは記憶に頼ってはならず、自らの数量化された営みを書き記して目に見える形に変えていった。

 中世後期とルネサンス期の西ヨーロッパの商人は、商取引の嵐の中で暮らしていた。彼らは時々刻々と変化する商売の現状を把握するために、適切な簿記法を発明する必要に駆られていた。
 中世初期には、受取勘定も支払勘定もなく、融資も滅多になされず、会計係もいなかった。また経済活動の主体は一人あるいは複数の個人で、会社に類する組織は存在しなかった。そして商人は行商人の域を出ておらず、帳簿も、決算するという発想もなかった。
 10世紀以降は商人が扱う商品の量・品目・金額が増加し、また事業が共同で営まれるようになった。また会計処理が乱雑だと、返済が遅れて利子が累積する恐れがあった。さらに代理人を介した商取引において、主人への報告内容や形式が明確でなかった上に、会計処理が不正確だった場合誤解が生じた。こうして簡潔かつ正確に記録する必要性が高まっていった。

 西暦1300年頃、イタリアの会計係の一部が、今日複式簿記と称される簿記法を用い始めた。14世紀初頭に資産と負債を別の欄に分けて帳簿がつけられ始め、その後専門用語や略語が作り出され、形式が整えられていった。
 複式簿記の直接的な効用は、商取引を数字で正確に記録し、わかりやすく配列することで、激しく変動する経済情勢の諸要素を理解しコントロールできるようになったことである。しかし14〜15世紀のフィレンツェの商人には、簿記に正確さを求めたり、日を決めて定期的に決算するという習慣はまだなかった。

 複式簿記の父と称されるルカ・パチョーリは、初めて印刷物の形で複式簿記を解説した人物である。彼の主著『算術・幾何学・比および比例全書』は、数学の様々な側面を網羅した百科全書であると同時に、商業算術の全てをわかりやすく解説し、貨幣と両替についても一節を割いているものである。この著作は1494年に初版が、1522年に完全な形での再版が刊行され、代数をはじめとした数学の様々な分野の目覚しい発展の礎となった。また簿記法を論じた一節である『計算および記録群論』は独立して各国語に翻訳された。
 パチョーリは、商人がきちんと帳簿をつけることは、度量衡・通過・商習慣が異なる様々な都市の相手と取引するために、そして彼らとよいパートナーシップを保つために重要であると論じている。帳簿を正確につけるためには、まずいつ帳簿をつけ始めるか(財産目録を作るか)を決め、自宅と店舗の資産、倉庫の資産、不動産と預金、信用取引の状況を順に書き出す。その上ではじめて日々の帳簿付けに取りかかれる。
 日々の取引について商人は覚書帳・仕訳帳・元帳の三種類の帳簿をつける必要がある(帳簿の全てのページには、破かれないように番号を振る)。覚書帳には全ての取引をできるだけ詳細に記録する。その内容を、仕訳帳に日付を付して転記するが、その際に瑣末な情報を省略して整理する。これをもとに元帳を作成するが、このとき複式簿記の技法を用いて事項を全て二重に記録する。項目ごとに仕訳帳の該当するページを記載し、資産を一方の欄に、負債を別の欄に転記するのである。元帳を決算するには、紙の左側の欄に借方勘定を、右側に貸方勘定を全て記入し、それぞれの欄を合計し、左右を比較する。総額が一致すれば会計処理が正確になされたと見なせるが、一致しなければ計算違いか記入漏れがあるか、不正な処理がなされたことになり、原因を入念に調べなければならない。

 複式簿記を用いると、大量のデータをとりあえず保存してから配列・分析することができる。商業・製造業・行政に関わったルネサンス期のヨーロッパ人や彼らの後継者たちが、会社や行政制度を作って運営する上で、複式簿記は重要な役割を果たした。今日でもその枠組みはパチョーリの時代から変わっていないのである。
 このようなヴェネツィア式簿記法は、全てをあれかこれかに峻別する二者択一的な思考様式を助長した。中世においては正確さは要求されず、事物を数量的に把握する必要性はほとんどなかったが、簿記法が日々実践されることで我々の思考様式に強大かつ広範な影響が及ぼされた結果、帳簿に適合するような形で世界が解釈されるようになった。