ギャレット・ハーディン「共有地の悲劇」シュレーダー=フレチェット編『環境の倫理 下』京都生命倫理研究会訳、晃洋書房、1993年、445–470ページ。
核戦争の見込みに関する論文の末尾で、ウィースナーとヨークは、軍拡競争のディレンマという問題の解決方法は自然科学の中には見つからないと結論した。科学雑誌においてこう主張することは、いささか勇気を要するものである。本稿の関心は、このような「技術的解決方法なき問題」と呼びうる問題に「人口問題」が含まれることを主張し、「人口問題」を検討することにある。
人口問題を技術的に解決することは不可能である。地球は無限である、あるいは有限かどうかはわからないと述べることは可能であるが、地球は有限だと想定しない限り、人類に降りかかる苦難が増大することは明らかである。従って地球が有限だと想定すると、有限な地球は有限な人口しか維持できないので、人口増加はいつかはゼロになるはずである。そのとき「最大多数の最大幸福」が実現されるかというと、答えは否であろう。第一の理由は、二つ以上の変数を同時に極大化することは数学的に不可能であるためである。第二の理由は、もし我々が人口を極大化しようとするならば、一人当たりの作業カロリー(単なる生存以上の活動に必要なカロリー)を可能な限りゼロにしなければならないが、そうすると幸福が極大化されないことは明らかなためである。
よって最適人口は極大値よりは小さいことになるが、その値を決定することは極めて難しいし、現時点で最適値を同定した民族はないと考えられる。もし最適値を同定できたならば人口増加率ゼロを維持するだろうが、人口増加率ゼロを達成している(したことがある)繁栄した民族はいない。また人口増加は人口が最適値に未だ達していないことの証拠とも想定できるが、人口が増加し続けている地域の人々は一般に最も悲惨な状態にあるため、この想定も正しいとは思われない。
人口学における「見えざる手」の観念、すなわち個々人の決定は社会全体にとっても最良であるという想定が正しいならば、生殖についての自由放任主義の継続は正当化され、人類は最適人口を生じさせるために個人の生殖能力をコントロールできると考えられる。しかしその想定が誤っているならば、個人的自由のうちどれが擁護に値するのかを再検討する必要がある。
実のところ、この「見えざる手」の想定は反駁されており、「共有地の悲劇」と呼ばれる。全ての人が使用できる牧草地を想像してほしい。一人の牧夫が牧草地にもう一頭多く牛を放すと、彼が得る利益は牛一頭分である一方、過度の放牧によって被る不利益は(全ての牧夫によって負担されるため)牛一頭分の数分の一になる。よって合理的な牧夫は牛をもう一頭放すことになる。しかし全ての牧夫が同様に牛を放すと、牧草地は過度の放牧によって破綻してしまう。このように、各人が自らの利益を追求すると、全員が破滅してしまうことを「共有地の悲劇」と呼ぶ。これに対して我々にはいくつか選択肢があるが、それぞれ異論も起きうる。それでも我々は選択しなければならず、さもなければ共有地は破壊されてしまう。
共有地の悲劇は、逆の形で汚染という問題にも現れる。そこでは共有地から何かを取り出すのではなく、何かを放り込むことが問題となる。合理的な人間にとって、廃棄物を自ら浄化するコストより、共有地に廃棄物を排出するコストの方が小さい。これが全ての人に当てはまるため、我々は「自らの巣を汚す」システムに組み込まれることになる。この問題は人口増加の帰結の一つである。なぜなら、人間が多くなければ排出された汚水は浄化されてしまうが、人間が多くなると汚水が浄化しきれなくなるためである。
これによって一つの道徳原理が明らかになる。つまり、ある行為の道徳性は、その行為が行われた時点におけるシステムの状況に依存するという原理である。道徳がシステムに影響されるということはこれまでほとんど見落とされてきた。我々が選んだその場しのぎの解決法は、行政立法によって制定法を肥大化させることだったが、そこでは「見張り人を誰が見張るのか」という問題が生じる。よって我々の課題は、「見張り人」の不正を予防するためのフィードバック機構を考案することである。
人口問題にはもう一つ別の仕方で「共有地の悲劇」が関わっている。我々の社会は福祉国家という性格を強く帯びているため、過度な生殖が行われたとしても、子孫が生き残れるような仕組みになっている。このため、「出産の自由」という概念と、全ての人間は共有地に対する平等な権利をもつという信念が結びつけられると、世界は悲劇的な結末に向かうことになる。
人類の出生をコントロールするために良心に訴えるのは誤りである。より多くの子どもをもつ人々は、より敏感な良心をもつ人々より、次の世代において人数を増やすことになり、この差異は世代を経るに従って大きくなっていくはずである。よってC・G・ダーウィンが述べたように、「避妊するヒトという亜種は絶滅し、生殖するヒトという亜種に取って代わられる」ことになる。この議論は、共有地を利用している個人に対して、社会が公共善のために自制するよう(良心に)訴える場合全てに当てはまる。そのように訴えることは、人類から良心を消し去るようなシステムを打ち立てることになる。
良心への訴えかけは、以上のような長期的不利益とともに、短期的な不利益も伴う。もし共有地を利用している人が、良心の名の下にそれを止めるよう告げられると、その人は矛盾する日辰の情報を受け取ることになる。一つは、「共有地の利用を止めないと、責任ある市民として振舞わないとして、あなたを非難するだろう」という意図した情報、もう一つは「共有地の利用を止めたとしたら、他の人々は利用しているのにそれを止めてしまう間抜けだと、あなたを陰であざ笑うだろう」という意図しない情報である。このようなダブル・バインドに捕らえられた人は、精神的健康を脅かされることになる。我々は、このような技術を政策として利用するよう促すべきではない。最近「責任」という言葉も用いられるが、それは「良心」の同義語に過ぎない。「責任」という言葉を使うのであれば、チャールズ・フランクルが述べたように「明確な社会的取り決め」という意味で用いるよう提案したい。
責任を生じさせる取り決めとは、何らかの強制を伴う取り決めである。強制は、禁止だけでなく自制も創出することができるものである。そしてここで勧める強制とは、利害に関わる多数の人々によって相互に合意された、相互的強制だけである。我々が強制装置を設けて(不平をこぼしながらも)それを受け入れ支持するのは、共有地の悲劇から逃れるためである。そして我々が受容しうるのは、完全なシステムだけではない。なぜなら、現状の利点と不都合を、提案された改革に伴うであろう利益と不都合と、比較することは可能だからである。それによって、実現不可能な想定を含まない、合理的な決定を下すことができる。
共有地の論理に組み込まれた諸個人がもっている自由とは、全体の破壊をもたらす自由に過ぎない。彼らが相互的な強制の必要を認識すれば、破滅以外の目標を追求する自由を得る。ヘーゲルが述べたように、「自由とは、必然性(必要性)の認識である」。我々が今認識しなければならない必要性とは、出産の自由を放棄することの必要性であり、それによってのみ、「共有地の悲劇」の一形態に終止符を打つことができるのである。
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