2015年12月4日金曜日

機械的客観性:スケッチと写真、自己監視、客観性の倫理 Daston&Galison(2007) chap.3 sec.4–6

Lorraine Daston and Peter Galison, Objectivity (New York: Zone Books, 2007): 161–190.

 授業で扱った、第3章「機械的客観性Mechanical Objectivity」の後半にあたる第46節のまとめです。

スケッチ対写真 (pp.161–173)
アトラス製作者は、スケッチと写真のどちらを選ぶかという問題に直面したが、結論は出なかった。教育における実用性・自然に対する正確さ・美しさ・客観性は必ずしも両立しなかった。ライプチヒの発生学者Wilhelm Hisは、スケッチと写真はそれぞれ長所・短所をもち、相補的な関係にあると述べた。
一方、細菌学者Robert Kochは、スケッチは主観が入らざるを得ないため、写真がスケッチに取って代わるべきだと主張した。彼は炭疽菌研究の後に細菌の写真を撮る仕事に取り組み、1880年には、微生物に関する客観的知識を得るためには写真が必要不可欠だと考えた。「完全に客観的な」顕微鏡写真は、スケッチよりも染料の色が見づらかったり、影が写り込んだり、一つの面からしか見られなかったりといった欠点もあったが、それを補って余りある利点をもっていると彼は考えた。
スケッチが必ずしも主観的なものではないと考える人々もおり、例えばイェーナの医師たちは写真に対して木版画を擁護した。しかしドイツの解剖学者Johannes Sobottaは、彫刻家の裁量が大きすぎるとして木版画の使用を批判し、[元のスケッチの]写真製版印刷による複製の重要性を主張した。彼はアトラスに用いる人体の部分をスケッチし、自動式石版印刷技術で石に転写し、それをそれと同じ大きさに引き伸ばした写真と比較してチェックした。
彼は同様の方法を、組織学及び顕微解剖学に転向した後も用いた。彼は試料が偶然もっていた特徴が表現に影響する可能性を指摘し、その影響を小さくするために、複数の試料を用いてスケッチを行ったり、そのチェックに複数の試料のモザイク写真を用いたりした。このように複数の試料のモザイク写真を用いる場合、描かれるのは[個々の試料の]特徴ではなく[試料が属する集団の]理想形なのだろうか。またそのようなものを理想形と呼んでいいのだろうか。あるいは、彼が描こうとしたのは、[個々のあらゆる試料の]本質的な要素を表現した類型なのだろうか。彼はこれらの存在論的問いを無視して、複製から主観性を排することのみに注意を向けた。
個々の要素を合成して一つの像を作ることは、解釈や判断の余地が残るとして敬遠されたものの、機械的な手順で実現できる場合擁護されることもあった。イギリスの人体測定学者Sir Francis Galtonは、あるグループに属する各個人の絵をそれぞれ透明な紙に描き、それらを用いて写真乾板を感光させることで、機械的に合成されたそのグループの[典型を表す]像が得られると考えた。各個人の絵をどれくらいの時間感光させるかは科学的に決定できた。彼のこの方法は、個々の「背後の」理想形を獲得することを、主観的理想化ではなく機械的客観性に基づいた手法で可能にした。
1920年代後半になっても、客観性を擁護し個人の判断を批判する論調は強かった。ベルリンの医師Erwin Christellerは、科学者は自分ではスケッチせず、機械的方法で写真を製作できる技術者に任せるべきだが、同時に、科学者は像の製作過程に他者の意向や干渉が入るのを防ぐために規制をすべきだと主張した。写真製作の過程はこのとき特別な認識的地位に高められ、そのスケッチに対する優位性が語られたが、それは個人の判断の排除と密接に関わっていた。客観性のためには、色や画像の鮮明さなどさえもが犠牲にされた。

自己監視 (pp.174–182)
19世紀末の、図における客観主義pictorial objectivismの創出を特徴づけるのは、自己監視self-surveillance即ち倫理的・科学的な自制であった。(画家・印刷工・彫刻家などの)他者の監視は、研究者自身への道徳的命令まで範囲を広げた。[標準からの]個人の逸脱は「個人誤差」を用いて制御できる場合がある。例えば天文学において、観察者は、星が[視野内にある]観察機器のワイヤを横切った瞬間にボタンを押すことで、星の通過時刻を正確に記録しなければならなかった。そこでボタンを押すタイミングの個人差を把握しそれに応じて調整を加えることで、より正確な記録を行うことができるようにした。
個人の傾向による、よりかすかな干渉を調整するのはさらに難しい。Hermann PagenstecherCarl Genthは、自己監視は非常に難しく、それを実現する「理論的結論」「実践的結論」は存在しないと指摘した。1890年、彼らに続いてEduard Jeagerは、自己監視は認識的徳だけでなく認識的不徳の序列も指示することを主張した。彼によれば、目で見て確かに捉えられるものしか描いてはならず、何かを書き落とすことは何かを(不確かなのに)書き足すことよりましであった。
科学者の一部は、スケッチを描かないことで[主観的な]解釈を排除できると考えた。アメリカの神経科学者M. Allen Starrは、スケッチの不十分さを批判し、写真の使用を支持した一方、「個人の解釈」「スケッチ」を完全に排除することで、一定の厚さ以上のものは写真に撮れないという困難に直面した。
彼と同じく「個人の解釈」を排そうとした、ベルリンの細菌学者Carl FraenkelとスタッフドクターRichard Pfeifferは、1887年に出した細菌学のアトラスにおいて、科学におけるスケッチと写真の論争について言及した。我々はただ目だけで物を見るのではなく、理解している内容を通じて見る。スケッチはそのような理解を反映することを避けられない一方、写真は物そのものを「バイアスなく」、そしてより正確に反映する。また写真は、顕微鏡を用いて通常一人でしか見られない光景を、顕微鏡なしで他人にも見せることができるのに加えて、顕微鏡を用いた場合大まかな観察で終わってしまうところを、より詳細に探究することを助ける。しかし彼らは写真の欠点も指摘した。写真乾板は試料の一部しか捉えられず、用いる試料の厚さに限界があるために写真は単一の焦点面しか示せず、端はぼやけてしまう。また細菌の大きなコロニーは顕微鏡写真による表象[に適した大きさ]を超えてしまう。
同じくスケッチと写真の論争に言及したのは細菌学者Karl Bernhard Lehmannであった。彼は客観性を確保する目的で写真が優れていることは認めつつ、空間的な深さを描いたり、病気の診断などに用いたりする場合、スケッチの方が優れていることを指摘した。
機械的客観性は、教育的効果・色彩・厚み・診断における有用性などを犠牲にするものであったが、多くの専門家が進んでそういった犠牲を払ったことは、この認識的徳が強く彼らを惹きつけたことを示している。アメリカの天文学者Percival Lowellは、火星の「運河」の存在を立証しようと試み、1905年に火星の表面をフィルムに収めることに成功したが、その像は灰色でぼやけており複製困難なほどであった。しかし彼は、客観性のために明瞭さや複製可能性までも進んで犠牲にした。

客観性の倫理 (pp.183–190)
Cajalにとって明瞭に見ることは、科学と徳の両方にとっての目標であった。Golgiは仮定に合うように脳の網目構造を見たが、Cajalによれば、そのような「誘惑」が意志の弱い科学者を真の観察から遠ざける。Cajalは、生理学的機能からの推測と美的・理論的魅力の誘惑に屈する衝動の両方を抑制すべきだと主張した。
機械的客観性は、自然の正しい描写の営みの中にあるものの、描写の正確性と自制への道徳的忠誠を比べた場合、後者の方が優先されてきた。初期のアトラス製作者たちは画家に自制を求め、類型あるいは[個々の]特徴から発見される真実に関心をもっていた。後にアトラス製作者たちは自制を自身にも向け、また、真実の把握には介入が必要でありかつ像の修正には主観性が入ってしまうために、類型を犠牲にし、真実の理解を後回しにした。しかし全ての介入をなくすことは誰にとっても不可能であり、その意味で機械的客観性はあくまで理想に留まる。
 アトラスは類型的事象でも、類型の特徴を示す個々の事象でもなく、標準の範囲をカバーする少量の事象を示すに留まるという意味で、機械的客観性はアトラスの理想化の野望を砕いた。また、18世紀のアトラス製作者にとっては、本質的なものと偶然的なものを区別しないこと、欠陥のある見本を修正しないこと、像の重要性を説明しないことは、徳のある束縛ではなく能力の欠如とみなされた。しかし19世紀初めの数十年間で、科学者たちは、解釈と想像の高まりに気をもみ始めた。彼らはそれらの「内なる敵」を、外的にも内的にも統制しようとした。意志を統制しようとするこのような内的葛藤が、機械的客観性に道徳的な色彩を色濃く加えた。
 写真は非介入主義的な客観性の象徴とされたが、それは写真がスケッチより自然に忠実だからではなく(初期の写真よりはスケッチの方が正確だった)、人間の介入を排しているからであった。非介入こそが機械的客観性の核心であった。
 客観的像の興隆は、視覚空間に関する芸術と科学の対立を促した。1618世紀には芸術と科学は協力関係にあったが、19世紀初めに入ると、ロマン主義芸術家は意図的に[絵などに]自己[の見方]を付与することが芸術にとって不可欠だと述べる一方、科学者は像に自己の痕跡を残すべきでないという逆の主張をするようになった。写真はこの芸術と科学の論争に参入した。19世紀の優れた顕微鏡写真の専門家Richard Neuhaussは、肖像や景色の写真なら修正は不可欠だが、科学者にとって自然[を写した写真]の修正は許されないと指摘する一方で、それが理想に留まることにも気付いていた。また彼は、大抵の研究者はスケッチを他者に依頼するため、様々な主観的解釈が入り込むことは避けられないと指摘した。さらに彼は、顕微鏡写真が客観的に対象を反映する以上に、対象以外のもの(光の多寡や回折など)を反映しうると主張した。

そして20世紀に入ると、機械的客観性に対する信用は崩れていった。客観性はあくまで理想に過ぎず、完全には実現不可能だと考えられるようになった。1872年の演説でRudolf Virchowは、主観性を完全に排することは不可能だったと告白しているが、20世紀初頭の多くの科学者たちも同様の結論に至った。その後、主観性の必要性を認める人々もいれば、客観性を追求する領域を数学や論理学に移す人々もいた。

2015年11月27日金曜日

発見的医学:方法学派とメタレプシス Webster(2015) 【Isis Focus:限定合理性と科学史】

Colin Webster, 2015, “Heuristic Medicine: The Methodists and Metalepsis,” Isis 106(3): 657–668.

科学的実践としての限定合理性(pp.657658
本稿では、古代ローマで栄えた医学の一派である方法学派Methodistを取り上げ、自覚的に限定合理性を採用した科学はどのように見えるのか、そのような科学の営みにはどのような認識論的問題が現れるのかを考察する。方法学派の特徴は、病気の原因の説明を拒否し、代わりに「明白な共通の姿manifest commonalities/phainomenai koinotêtes」に基づき医学において発見的方法heuristicsを用いた点である。
まず、方法学派が明白な共通の姿を用いてどのように実践的医学を打ち立てたのかを描写する。次に、方法学派の非因果的科学が抱えた困難を3つ挙げる。最後に、発見的方法がメタレプシスmetalepsisと呼びうる存在論的ずれを引き起こすことを説明する。

方法学派と発見的方法(pp.658–661
方法学派は、ラオディケアのテミソンによって紀元前1世紀頃創設され、トラレスのテサロスによって完成されたギリシャ医学の一派であり、300年以上にわたっておそらくローマで最も支配的であった。彼らは、患者の過去の症状との類似性に基づいて治療を行う経験学派Empiricistを当て推量にすぎないと批判し、病気の原因の説明を試みる教条学派Dogmatistを、人間の知識の限界を超越した実体(体液や原子など)を前提としていると論難した。彼らにとってそのような「隠された原因」の推測は医学の範囲外で、役に立たないものであった。彼らは、全ての病気は3つの「明白な共通の姿」(緊張、弛緩、混合)の表現形式であり、未知の体内の状態を仮定することなく、明白な共通の姿を直接理解できると主張した。
経験学派と教条学派はどちらも、体の特徴や病気にかかる前の環境が潜在的に病気に関係していると考え、それらを知ることには終わりがなかった一方、方法学派は人間の知識の限界に応じて明白な共通の姿を設け、因果的説明を新たなメカニズムに置き換えた。さらに彼らは診断だけでなく治療の決定も単純化した。それぞれの共通性はその治療を指示するので、治療の選択は単なる当て推量ではなく理性による演繹的行為であった。このように、発見的方法に似た明白な共通の姿は、安定した知識をもたらし、医学を単なる技術ではなく科学に分類するのを正当化した。

実践における発見的方法(pp.661–662
方法学派は、実用的な方法も手伝って、直観的で詳細な医学システムを作り上げた。彼らは病気を慢性と急性の疾患に分け、病気の進行を4つのプロセス(初期、増大、発作、減退)に区切り、それぞれの段階に合わせて治療を考え、また新たな薬理学的治療も考案した。明白な共通性は3つのみだったが、方法学派はそれ以上の数の治療法をもっていた。
さらに明白な共通性を用いることで、より経済的利益を上げやすくなり、[医師の]訓練期間も短縮された。また、ギリシャ語話者である方法学派がローマの患者を診る際の言語的・文化的障害も少なかった。

存在論的危機(pp.662–665
非因果的医学はまず、原因が知りえないとしたら病気とは一体何か、どう定義し同定するのかという問いに直面した。これに対して方法学派は、病気を、体によって経験される[病気の]結果と極めて近いものと捉え、基本的なカテゴリーを「病気disease/nosos」から「疾患affection/pathos」に変化させた。しかし、明白な共通の姿は3種類しかないのに、いかにして3つ以上の病気が存在しうるのかという問いが残った。症状symptomは病気と対応しているわけではないためその同定には使えない。よって方法学派は、一つの病気に対して必然的かつ特有の繋がりをもつ「徴候群sign-sets」を導入した。だがここでも、そのような徴候群は明白な共通の姿が元々担うはずだった役割を奪ってしまうという問題が生じた。さらに、徴候群はそれ自体で理解できるものだと考えられているが、誰もが訓練なしに明白な共通の姿を理解できるならばディシプリンとしての方法学派は必要なくなってしまう。テサロスは、共通の姿は直接目に見えないが、指示的特徴indicative featuresを示すと考えた。だがもし指示的特徴によって明白な共通性が推測できるならば、共通の姿は隠された原因に接近することになる。
カテゴリーの区別が抱えたこれらの困難は、原因から結果への、また結果から原因へのずれを生じさせながら、方法学派の医師たちの間に様々な意見の相違をもたらした。原因論を拒否することによって、方法学派は病気のカテゴリーを不安定化させ、知りえない原因と階層化された結果の間に新たな理論的機構を組み立てる必要にさらされてしまった。

メタレプシス(pp.665–667
方法学派の、発見的方法に似たアプローチが抱えた困難は、メタレプシスという言葉で要約できる。ここでいうメタレプシスとは、共通の姿、疾患、症状、徴候などが混同されて言葉が置き換わること、つまり存在論的ずれが生じていることである。
方法学派の発見的方法は、メタレプシスで要約できる理論的問題だけでなく、患者が原因と結果という枠組みで考える世界で機能する必要があったという実用上の問題も抱えていた。実際、明白な共通の姿を疾患などの原因と想定するのは容易であり、偽ガレノスは明白な共通の姿を偽装された原因だと論じた。方法学派の中には原因論を受け入れていた者や、目に見える結果を用いて隠された共通の姿を推測する者さえいた。彼らは因果的議論に取って代わるはずだった発見的方法を、原因論に類するものとして定立させた。

結論(pp.667–668
方法学派の事例は限界の限界を示している。彼らは人間の知識の限界を受け入れ、医学の領域で確実性を模索するための新たな理論的道具を据えたが、発見的医学が抱えた困難によって彼らの限定合理性は不完全なものになった。彼らの認識論は複雑で微妙な差異を含んでいたが、多くのメタレプシスの例を示した。発見的方法は、実践的問題を解決し世界の正確なモデルを作れるが、潜在的に理論的複雑性を導入し、原因と結果の間に新たな存在を創り出してしまう。

2015年11月5日木曜日

どんな理論的対象が実在的なのか ハッキング(1983=2015)第2章

イアン・ハッキング『表現と介入』渡辺博訳、筑摩書房、2015年、7995ページ。

 読書会で担当した部分のまとめです。

2章 基礎単位となることと原因となること

イントロダクション
「実在的[本物]」という言葉は、自然科学においてどんな用法をもっているだろうか。この言葉で満ちている実験にかんする談話を二つ挙げよう。一つは細胞生物学において、標本にした細胞の顕微鏡写真に規則的に見られる繊維の網は本物ではなく、標本に生じた人為構造であると述べるものである。もう一つは物理学における自由クォークが(批判的な人々から見れば)本物ではなく、これまで知られていなかった新しい電磁力であると述べるものである。
では「実在的[本物]」とは何を意味するのだろうか。JL・オースティンは最も優れた簡潔な考察を行っている。彼の『知覚の言語』の第7章で述べられている方法論上の規則は、「われわれは「本物のクリームではない」のようなさり気ないおなじみの言い回しをことさら蔑むことさえないものとして片づけてしまってはならない」というものと、「単一の、明確に述べることのできる、常に同一な意味」を捜してはならないというものである。即ち彼は、言葉の使用のなかにある規則性を体系的に研究することを要求する一方、同意語を捜すことのないよう警告する。また、彼の「実在的[本物]」という言葉にかんして4つの観察を行っているが、そのうちの2つは特に重要である。1つ目は、「実在的[本物]」という言葉は名詞欲求型である、即ち「それは本物だ」という言葉を適切に理解するには名詞が要求されるというものである。2つ目は、「実在的[本物]」という言葉は否定主導語である、即ち「本物のS」の意味は「本物のSではない」という否定形に由来するというものである。「本物の」という言葉は文脈によって何を否定するかが変わるが、それは「本物の」という言葉が曖昧なためではなく、「本物の」という言葉の意味が、修飾している名詞に依存するためである。「本物の」という言葉が様々な仕方で用いられていることのみを理由に、様々な種類に実在があるに違いない、と考えられがちだが、「本物の」という言葉自体は、名詞が変わっても多義的な意味をもつわけではないのである。
以上を踏まえて、特に専門化した議論においては「実在の[本物の]」という言葉でどんな対照が考えられているのかを明らかにする必要がある。では、理論的対象が本物の対象である/ないとすれば、そのときどんな対照が考えられているのだろうか。

唯物論
JJC・スマートは『哲学と科学的実在論』(1963)で前述の問いに応じている。彼によると反実在論者は、電子を恒星、惑星、山、家、テーブル、砂粒、微細結晶、細菌[などの実在的と考えられる対象]とは別物だと主張しているが、それらは突き詰めれば電子からできているため、したがって反実在論者は誤っている。また「実在的」という言葉はある対照を指定しなければならず、またすべての理論的対象が実在的であるわけではない。例えば彼によれば、磁力線は実在的ではない。一方、力線という概念を最初に考案したファラデーは、晩年、力線が実在的だと考えていた。このことは、実在にかんする考えには、[スマートが考えていたような]基礎単位building blockという水準を超えているものもあるという事例を示している。
スマートは、物理的なものは電子などからできているという考えに基づいている点で唯物論者であるといえる。一方、バークリーは反唯物論者であり、またファラデーは唯物論者ではない。
ベルナール・デスパーニアの『物理的実在』には、唯物論者にならずに科学的実在論者でいられるという論証がある。即ち「実在的」という語においてスマートとは別の対照を指定できると述べている。またスマートの区別は、社会科学や心理学の理論的対象が実在的であるかを論じるのには役立たない。チョムスキーは『ことばと認識』(1980)で認知心理学における実在論を主張しているが、彼は脳が組織化された物質でできていることだけでなく、それが思考という現象の「原因」となることも考えている。この「原因」という言葉は、科学的実在論の別の解釈を促す。

因果主義
類比的に、実在的なものの因果的な力を強調する者を因果主義者と呼ぶことにする。ここで2つの事例を挙げる。アメリカ産科婦人科学会は、生理用タンポン使用と中毒性ショックの間にある連関があることは認めたが、原因と結果の明確な関係があるとは認めなかった。また、核弾頭を装備したミサイルが化学的爆発を起こした後、近隣の村民が体調不良に悩まされたが、アメリカ空軍は原因と結果の関係を否定した。これらは、われわれは相関関係を完全に否定することを相関関係の断定から区別すること、また相関関係を原因から区別することを示している。因果主義者はこの部分を特に重視する。
ナンシー・カートライトは因果主義者であるといえる。彼女によれば、あるタイプの出来事がある結果を生み出すという理解の明白な証拠は、ある種類の出来事を別の種類の出来事を生み出すのに用いることができることである。さらに、何かを実在的だと呼び得るのは、それが基礎単位だからではなく、因果的な力をもつからである。例えば電子や陽電子は、ニオブの小滴に吹きつければ電荷を変化させることができるため実在的といえる。この見方に従うと、ファラデーは非唯物論者かつ因果主義者といえる。

対象であって理論ではない
ここで、対象にかんする実在論と理論にかんする実在論を区別する。今まで登場した唯物論者も因果主義者も、対象について述べていた。
前述のカートライトは、理論にかんしては反実在論者であり、対象にかんしては実在論者であるといえる。彼女曰く、諸々のモデルや理論は、現象を理解し実験場の技術を組み立てるのに役立つ知性の道具であり、諸々の過程に介入したり新しい現象を作り出したりできる。しかし厳密に真なる法則は存在せず、諸々の結果を生み出すのは電子など[の実在的なもの]である。これは、ヒューム以来の経験論の伝統に対する驚くべき反転である。そのような伝統においては、実在的なのは規則性だけだからである。
このような反転の可能性はヒラリー・パトナムに多くを負っている。彼によれば、理論語が特定の理論から意味を得るという観念を拒否し、現象によって事物の観念を定式化することは可能である。また、理論的対象を用いてはじめて事を行うことができるようになる。そして、理論的対象にかんする様々な説明はどれも、自然に介入する際に実際に用いることができる因果的な力を記述する。

物理学を超えて
因果主義者は[唯物論者と異なり]、超自我や後期資本主義[などの、社会科学や心理学における理論的対象]が実在的かどうかを考察できるが、それらについての因果的理解はもち合わせていない。また因果主義は、社会科学にとって未知のものではない。マックス・ウェーバーは理念型の学説を抱いており、「理念的」という言葉を「実在的」と対立するものとして用いている。ここでいう理念とは、人間精神の創案であり、思考の道具である。ウェーバーがマルクスについて考察している記述から、次のような教訓が得られる。①スマートのような唯物論者は、社会科学上の対象の実在性に直接的な意味を与えることができない。②因果主義者にはそれができる。③因果主義は実際には理論的社会科学のどんな対象の実在性も拒否するかもしれない。結果的に唯物論者と因果主義者は同様に懐疑的かもしれない。④理念型にかんするウェーバーの学説は社会科学上の法則に対して、否定的な形で因果主義的態度をとる。例えば、マルクスの理念型は因果的な力をもたないため実在的ではないと主張する。⑤因果主義者は、ある物理科学は因果的性質がよく知られている対象を見出しているが、ある社会科学は見出していないという理由で、後者を前者から区別するかもしれない。
少なくともある科学的実在論では「実在的」という言葉をオースティンとほぼ同様に使用できる。前述のように、スマートにとって対象とは基礎単位となるためのものであり、カートライトにとって対象とは原因となるためのものである。両者はいくつかの対象にかんして科学的実在論者だが、「実在的」という言葉を異なった対照をもたらすものとして用いているため、両者の「実在論」の内容は異なる。次に、同じことが反実在論でも起こっていることを見ていく。

2015年10月21日水曜日

「脳死=人の死」正当化への批判 Brugger(2013)

E. Christian Brugger, “D. Alan Shewmon and the PCBE’s White Paper on Brain Death: Are Brain-Dead Patients Dead? ,” Journal of Medicine and Philosophy, 38(2013): 205218.

 卒論で言及した論文のまとめです。2008年に出された米大統領評議会白書の内容は、全脳死基準に対するアラン・シューモンの批判を乗り越えようとしているものの、シューモンの批判は依然として有効であることが指摘されています。

1. 脳死に関する大統領生命倫理評議会(PCBE
200711月、[米国]大統領生命倫理評議会(以下PCBEとする)は脳死の話題を取り上げた。大統領評議会で脳死が取り上げられたのは、1981年の『死の定義における医学的・法的・倫理的問題に関する報告書』(以下『報告書』とする)以来である。『報告書』では、1983年に公表されたいわゆる「ハーバード基準」の理論的根拠となる、死の定義の神経学的基準が提示された。
『報告書』は、死は全脳の機能の不可逆的喪失によって示され、ハーバード基準がその喪失の指標となっていることを主張している。また、脳を身体の統合性の「管理者regulator」と定義し、さらに死を身体の統合性の喪失と定義することで、全脳が不可逆的に機能停止すれば有機体即ち人間は死に至ると結論している。これは死の「生物学的定義」と呼ばれており、脳が全体的・不可逆的に破壊destructionされている患者はこれを満たしていると『報告書』は論じている。

2. シューモンの異議
PCBEでは2007年秋の会合に向けて「死の定義における論争」と題した白書の草稿の回覧が行われた。当時[死の]神経学的基準に異議が出ていたことから、PCBEは全脳の不可逆的破壊と有機体の生命との関係について熟考しようと努めたものの、草稿の内容は『報告書』の内容を再度主張するものだった。2007119日、PCBEは草稿へのコメントを求めるべく、UCLAメディカルセンターの小児神経学の教授であるD・アラン・シューモンを招致した。彼は死の神経学的根拠の著名な批判者である。彼は会合の冒頭で、白書で支持されている「生物学的基準」は米国・英国両方で支配的であり彼自身の見解とも一致するものの、脳の破壊はこの基準を満たしていないと述べた。
シューモンは、1980年代には死の定義として大脳死基準(死を[大脳の]新皮質の機能に帰着させる)を採っていた。しかし皮質を持たない水無脳症児を診たことをきっかけに、大脳死基準を放棄し、全脳死基準を擁護するようになった。そして1992年には、全脳破壊と診断された後も生命維持処置を続けられた少年を診たことから、彼は全脳死基準も放棄することとなった。少年は亡くなるまでの間、身体の統合性を比較的高水準で示したため、シューモンは、死に至ると身体の統合性が失われるという考えと神経学的基準はいずれかが間違っていると考え始めた。さらに彼は、頸髄損傷[=脊髄損傷のうち首の部分の脊髄の損傷]と全脳死の生理学的影響は、意識の有無以外全く同じであることを発見した。頸髄損傷の患者は意識があるが死んでいると言うのは馬鹿げており、したがって意識の有無以外それと同一である全脳死患者を死んでいるとは言えないとして、彼は全脳死基準を放棄すべきだと結論した。
シューモンはPCBEの会合において、脳死した身体は統合性を失っているという見方とはっきり矛盾する症例をいくつか提示した(ホメオスタシスを維持する・成長する・麻酔なしで切開すると循環器とホルモンに反応が出る・妊娠を継続する・第二次性徴を示すなど)。また彼は、身体の統合性は、脳によるトップダウン式で局所的な機構ではなく、身体の全ての部分の協働による非局所的な機能であり、脳はあくまで調整役にすぎないと指摘した。彼のプレゼンはPCBEのうち数人を著しく当惑させたものの、それによって、脳が破壊されれば身体のシステムがばらばらになるという考えが崩されたとは誰も考えなかった。
200812月、PCBEは脳死に関する白書(以下WPとする)を公表した。白書で脳死論議への近年の異議を扱うのに費やされている努力に、PCBEがシューモンの主張をいかに真剣に取り上げているかが表れている。

3. 2008年のPCBE白書
 WPは全7章からなり、第4章で「全脳不全(total brain failure、以下TBFとする)の患者は本当に死んでいるのか」という中心的な問いを扱っている。これへの応答として、シューモンの見解とPCBEの統一見解という、対立する2つが述べられている。
 全脳死基準の初期の擁護者の主張は以下のようなものであった。生命ある有機体living organismであるためには、その存在は生命ある統一体wholeでなければならない。身体の個々の部分が生きていることと有機体として生きていることは別である。したがって有機体としての死は、生命ある組織全ての破壊ではなく、統合された身体の生気unified bodily animationの停止と同一視されるべきである。生命ある有機体の統一性living organismic wholeness統合された身体活動integrated somatic activityによって示され、また脳は身体の統合性を支配する器官master organと考えられている。したがって、全脳が破壊されれば統合性の源が破壊され、身体の活動はばらばらになり、全体としての有機体organism as a wholeは存在しなくなる。
 シューモンの挙げた症例は、全体としての有機体に統合性を与えるのは脳であるという想定を放棄するよう迫るものである。彼は脳活動と身体の統合性との間に必ずしも関係があるわけではないと主張する。例えばTKという患者は、4歳から20年にわたって人工呼吸器を装着していたが、ホメオスタシス維持など身体の統合性と呼べる機能を示した。しかし彼の検死解剖の結果、脳や脳幹は消失しており、残骸も石灰化していた。ここで、TKの身体が示していた統合性は、全体としての生命ある有機体whole living organismの存在の指標といえるのかという問いが生じる。これに対する立場は2つに分かれるが、1つは統合性を全体としての生命ある有機体の存在の指標とみなし、TKのような患者を[生命ある]人間とみるものである。
 WPは、統合性が全体としての生命ある有機体の存在の指標であるなら神経学的基準は放棄されねばならないことを認める上に、脳は支配役ではなく調整役であるというシューモンの主張も受け入れる。その一方、「統合性」という概念および脳がその「統合者」であるという想定を破棄し、「より説得的な」理論的証拠を提示する。即ち、我々は有機体の生死を「生命ある有機体の基本的な生命活動vital workの持続あるいは停止」と同一視するため、そのような生命活動の停止の現れを死の臨床的基準とすればよいというものである。
 ここでいう「生命活動」は自己保存活動、つまり意識のある生物が行う多くの活動(食べる、寝る、服を着る、入浴するなど)として現れる。またそれらは、有機体が外界と相互作用する際の内的な強欲求felt inner needの現れである。言い換えれば、生命ある有機体は、生命をもたない存在物と異なり、外界と相互作用するための強欲求felt needをもち、生命を維持するための資源を求めて活動する。これこそが有機体の基本的な活動であるとWPは述べている。
 有機体がこの活動を行うにあたっては、次の3つの能力が仮定されている。(1)外界からの信号や刺激を受け取ること、世界への開放性opennessをもつこと。これはPVS[遷延性意識障害]の患者にも見られる。(2)基本的欲求を獲得するために周囲の環境で活動すること。自発呼吸が典型例である。(3)有機体が強欲求を経験すること(その際必ずしも意識がなくてもよい)。即ち、環境への受容力・環境における活動・外界とのやりとりのための強欲求の経験である。WPは、これらのいずれもが脳死患者には見られないと指摘し、脳死患者は人工呼吸器によって死が訪れているという事実が隠されている「人工物」であると結論している。

4. WPの議論を評価する
 WPは自発呼吸を、3つの能力が損なわれていないことの証拠として非常に重要視している。生命を維持する酸素への強欲求を経験することで、身体は行動を起こし外界から資源[=酸素]を獲得する。またWPは自発呼吸と人工呼吸器による呼吸を明確に区別し、前者を全体としての有機体である確かなサインであると見なす一方、後者は強欲求によるものではなく人工的なものであり、全体としての有機体のサインではないと主張している。
 シューモンは自発呼吸の重要性に疑義を抱いている。子宮内の胎児や人工心肺装置を装着した患者は、気体の出入りがなくても生きており、身体的に統合されているからである。また彼がより重視するのは細胞レベルでの呼吸であって、それは脳死した身体でも行われているものである。しかしWPは、自発呼吸のない状態での酸素の交換は、強欲求を欠いており、生命活動の単なる真似事であると主張している。

批判
 有機体の「基本的活動fundamental work」という言葉はWP特有のものだが、3つの能力として示されている言葉の内実は新しいものではなく、ハーバード基準を哲学的に正当化するために焼き直したものである。2つを並べてみるとそれらの類似性が見えてくる。

○ハーバード基準:以下の観察可能な徴候は全脳の損傷の確実な指標であり、これらが確認されたとき「死は宣言され、その後人工呼吸器はスイッチを切られる」。
・無感覚…外部からの刺激や内的な欲求に対して全く気付かないこと。
・無反応…最も痛みの強い刺激に対しても全く反応がないこと。
・無体動…自発的な筋肉の運動、自発呼吸、刺激への反応がないこと。
・無呼吸…自発呼吸が完全に消滅していること。
・無反射…瞳孔が固定・散大し光源に反応せず、眼球の動きや瞬きもないこと。
WP:以下の三つの表現は有機体の生命ある活動が停止していることを保証する。
・無感覚…外界からの信号や刺激を全く受容しない。瞳孔が固定・散大して光源を追わず、痛みを避けず、液体を飲みこまず、外界へのどんな開放性も示さない。
・相互作用がないこと/無反応…基本的欲求に対し完全に受動的である。自発呼吸を全くしようとしない。
・強欲求がないこと…周囲の環境に手を伸ばしたり自己保存の資源を獲得したりするための強欲求に全く気付かない。

両方とも死の訪れの指標が示されている。前者は脳の永続的な機能停止を診断するための臨床的指標であり、それは患者の死と一致すると想定されていた。後者は生命に不可欠な能力の喪失の現れであり、「有機体の生命活動」という格調高い言葉を用いることで、前者で問題となった「全脳の不可逆的破壊に陥った人はなぜ死んだとされるのか」という問いに対して「脳死の身体は生命活動が停止しているから」と応答している。
 ここではハーバード基準のTBF診断に対する妥当性や、WPによる死の哲学的定義の妥当性を問うことはしない。ここで問いたいのは次の二つの想定である。(1)TBFに陥った患者は生命活動を決定的に停止している。(2)したがって、そのような患者は実際に死んでいると道徳的に確信できる。
 WPでは脳死した身体は有機体として生命活動を停止していると論じているが、脳死した身体は別の仕方でそれを示していると考えられる。例えばホメオスタシスの維持や塩分・尿素の尿による排泄は、そのような能力の現れであるといえる。また栄養摂取も例の一つである。脳死患者は食べたり飲んだりできないが、体内に機械的に栄養が供給されれば、身体は複雑な消化活動を行う。さらに、傷が治ることも例の一つであろう。外界からの侵襲にさらされると、身体は複雑な過程を経てかさぶたを作ったり傷の修復を行ったりする。同様の過程は脳死の身体が感染症と戦うときにも起こる。体は自己と非自己を区別し、自己を非事故から守るために攻撃する。
 これらの例では有機体の「基本的強欲求」が感覚され、それによって身体の調整がなされている。しかし厳密にいえば、TBFの患者は知覚活動を示さないため「強欲求」をもたない。WPは、強欲求の感覚は必ずしも意識を伴うことを意味しないと述べて言葉の解釈を回避しているが、もしそうであればこの言葉は比喩的に解釈されねばならない。上記の例では、強欲求は潜在的に危険なあるいは有益な生物学的過剰あるいは欠乏の身体的現れであると想定されているが、これらはまさに脳死した身体でも起こっていることである。また脳死した身体が示す生理学的調整は、外界との相互作用を構成し、WPが生命の明らかなサインだとするものである。したがってWPはこのような言葉の解釈は広すぎるとして退けるだろう。
 またWPでは、強欲求の典型例は自発呼吸であるとされているが、なぜ呼吸動因drive to breatheがホメオスタシス制御などの他の動因とは異なるのかについて、実質的な議論は示されていない。
 さらに、脳死患者は欲求に応答する能力をもたないと述べる以上のこと、即ち脳死患者が酸素への欲求を経験していないことまでは言えないと思われる。意識のある無呼吸の患者は、脳死患者と同様に自発呼吸をしないあるいはできないが、酸素を肺に送れば患者の身体は必要なものを吸収し、高酸素状態と低酸素状態の間のバランスを取る。同じことがTBF患者の身体でも起こっているのではないか。

5. 結論
 有機体は、各部分が全体のために機能する生命ある身体であるため、身体の非組織化は有機体の死であるといえる。しかしWPは、脳が身体機能の支配的な統合者であるという見方を廃棄しただけでなく、有機体の身体の統合性が停止することが死であるという考え方をも却下した。その考え方は、TBFの患者は死んでいるという直感を支える「全体性wholeness」を用いた説明と符合する。だが、脳死患者が脳によって調整されているわけではない高度な秩序を示しているなら、WPの結論は正当化できない。
 現在の科学が、TBFの患者は生きているという明白な結論に達しているとは思わない。しかし現在の証拠は、彼らは必ずしも死んでいるとはいえないのではないかと疑う十分な根拠を提示している。それらの疑いが取り除かれるまで、彼らを生命ある人間として扱うことが倫理的である。

2015年10月11日日曜日

科学における認識的図像 Lüthy and Smets(2009)

Christoph Lüthy and Alexis Smets, 2009, “Words, Lines, Diagrams, Images: Toward a History of Scientific Imagery,” Early Science and Medicine 14: 398-439.

 授業で扱った論文のまとめです。

イントロダクション
美術史家・科学史家・科学哲学者は過去15年くらいで、認識的図像epistemic imagesに着目して研究してきたが、そこでは(1)図像と図像でないものを分ける、時代に左右されない基準がある、(2)図像は時代を超えた、極めて安定した存在論的・認識的地位をもっている、(3)図像の安定した分類学の確立が可能である、という3つの想定がなされていた。これらは疑わしく反駁の余地がある。本稿の目的は、認識的図像への歴史を超えた、本質主義的アプローチの問題を指摘し、図像をめぐる認識的・存在論的・教育的想定を考慮に入れたアプローチを提案することである。

問題1:言葉と図像の曖昧な境界線
[CohenAlbum of Scienceシリーズの著者の一人である]John Murdochは、言葉がページを超えて自らを形作り、その過程で図像という形態への第一歩が踏み出される部分に注意を払った。現代の議論においては、単に図像をテクストとして扱うか、逆に言葉と図像の本質的な差異を想定するため、Murdochのような観点は欠けている。彼は、ギリシャ語のgrafeinが文字・図表・図像のいずれかを問わず「石版に刻む」の意であること、grafis(石筆)で描かれた線はドローイング・文字・テクストのいずれにもなるが、grafe/grammaという言葉はそれら全てを含みこむ意味をもつことを指摘している。またヒエログリフにおいては、ドローイングと文字の区別はなく、文脈に応じて判断される。
James Elkinsは、Nelson Goodmanによる図像の区別(文書・記号・図)を批判し、ほぼ全ての図像は3つの区別が混ざったところに位置すると論じた。Murdochの論はこのElkinsの論と共通点をもつと思われる。Murdochは言葉から図像への発展を4つの段階として捉えている。即ち、議論が表やテクストボックスにまとめられる段階(図1)、言葉同士が論理関係を示す線で結ばれて二叉分枝のようになる段階(図2)、二叉分枝が樹形に組織化される段階(図3)、樹形図に葉や林檎や周りの風景が描き込まれる段階(図4)である。このような連続性は、テクストと図像の間にはっきりした境界線はないことを示している。
言葉が図形に、図形が図像に容易に変わることで、認識的図像の類型学・分類学は困難となり、認識的図像の機能や役割を一般的なやり方で明らかにすることは不可能となり、言葉・概念・理論・図像の間の関係をはっきりさせる試みはだめになる。

問題2:同じ形状、異なる意味
この、二叉分枝が樹形図へ容易に変化する現象は、歴史的に立証される。例えばDarwinのノートへの記載(図5)は、アイディアが言葉になる前に視覚的な形をとって現れたものである。この記載をErnst Haeckelの樹形図(図6)と比較してみると、どちらも種の分岐を表しているが、線が伸びている方向が一定かバラバラか・線の広がりに目標があるかランダムか・線の分岐が論理的な対比と分岐のどちらかを表すのか両方を表すのか、といった差異がある。
形態学的に同じように見えても、意味は全く異なる例が存在する。1つの円を同じ半径の6つの円が取り囲んでいる4種類の図像(図710)はその顕著な例である。図7は「6」と「円の完全性」を象徴している。図8は図7と形はそっくりだが、[創世記における、神の]6日間の創造と7日目の休息を表している。図9Brunoによるもので、宇宙の構造を示している。図10も同じくBrunoによるものだが、図9の円が世界worlds (mundi)を表していたのに対し、この図の円は原子を表している。図910は意図的に似せて描かれており、図10の四隅の星は原子的構造が宇宙的構造と類似していることを示している。一方、図11は近年の物理学の論文に出てくるもので、黒い7つの円は銀原子の七量体を表している。形態学的にいえばこの七量体は図10の系譜にあるが、図117つの円が分割可能な銀の原子を示しているのに対して、[10]Brunoによる7つの円は、分割不可能で魂を吹き込まれたensouledものであり、2つは共通点をもたない。図711の例は、形態学的にいえば何世紀もそのまま残存していたように見える図像であっても、単一の意味や名前を与えることは不可能なことを示している。
形と意味が一致しない最も顕著な例は、図表ともグラフともとれるような、二つの座標の間に一本の直線が引かれた図である(図12)。幾何的な図とグラフの大きな違いは2つあり、1つ目は、グラフは目盛りを示す軸として垂直な線・平行な線が定義されている点、2つ目はグラフにおいてそれらの線は必ずしも空間的な広がりを表さない点である。
711の円と図12は、次の3つの問題を提起する。(1)図像学的類似例のうち、どれが本質的でどれが偶発的か。(2)ある図像の祖先は、何らかの重要性をもつのか、それともその図像の現在の機能を説明する唯一の側面なのか。(3)類似した表象が相容れないパラダイム間で用いられているという事実から、パラダイム・我々の心の構造・視覚言語の慣習について何かわかるのか。

問題3:同じ意味、異なる表象類型
 前節では視覚的に類似した図像が異なる意味を表す例をみてきたが、今度は逆に、同じ意味を表すのに異なった図像を用いる例をみていく。そのために、キミアのテクストにおける水銀を取り上げる。
 図13は宗教的錬金術的表現の伝統に基づき、はっきりと水銀を表象している。下部のドラゴンは水銀の蒸気を、中央の(キリストと聖母マリアの)両性者の手の中にいる蛇と賢者の石(金と銀を生み出す力が絵全体で表現されている)は水銀を、それぞれ示している。
 図14では、金や銀が()(しょう)されて消滅するところが示されている。図1314は、3つの金属を同じような隠喩や寓話の形式で表しているように思えるが、図13がキリスト教の発想に基づいて水銀の物理的特徴を描こうとしているのに対して、図14はエジプトや占星術に則っており、水銀の物理的特徴を示してはいない。またこの2つの図は金と銀もそれぞれ異なったやり方で表象している。図13では[水銀から金や銀が作られるという]化学的変化が、水銀の川で育てられた木が金や銀の果実をつけているという形で表されているが、図14では金と銀は擬人化され、色でしか同定できない。
 図15では、少女が騎士によって炎から守られている様子が描かれており、水銀の炎への耐性が乏しいことや、他の物質と結びつけば炎の影響を避けられることが表現されている。図15に付随するテクストは図1314のものとあまり変わらないが、図15は他の2つと決定的に異なる。それは、女性・騎士・炎の周りの風景が象徴的な役割をもっているのか、ただの装飾なのかは、玄人にしかわからないという点である。風景がただの装飾であれば、図15は、風景の中で象徴を示す性質と、キミアでないものの中でキミアの図像を示す性質の二つをもっており、この両義性はテクストから図像への変化を思い起こさせる。
 図16は水銀の別の擬人化の例であり、[ギリシャ神話に登場する]神々の使者ヘルメス(ローマ神話のマーキュリーMercuryにあたる)の姿をしている。しかし図像のヘルメットとサンダルの化学的シンボルがなければ、水銀mercuryか水星mercuryかは判別できない。このシンボルの位置によってBecherは、水銀の気化したvolatile状態と反応しないfixed状態を区別した。即ち、純粋な水銀と水銀の昇華物は空中に、水銀の沈殿物と辰砂[=水銀の原鉱]は地面に割り当てた。
 図17は図16より1世紀ほど古いもので、[ローマ神話の]マーキュリーだと判別できる点は翼のついたヘルメットのみである。図16と対照的に、図17は多くの寓話的含蓄がある。また図15が付随するテクストより豊かな情報をもつのに対して、図17はむしろテクストの方が多くの情報をもつ。
 図18はこれまで見てきた図像と大きく異なり、人ではなく、1つの円が2つの五角形に囲まれているが、これも同様に水銀を表している。Hartsoekerは水銀が金を溶かす理由を、丸い水銀粒子が[五角形の]金の分子の隙間に入り込んでバラバラにしてしまうからだと考えた。図18はそのようにバラバラになった金と水銀粒子の混合物であるアマルガムを示している。
 図19で示されている、円の上に半円が、下に十字がくっついている記号は、水星を表すものから転じて水銀も表すようになった。ここで記号sign・シンボルsymbol・図像imageの関係とは何かという問いが生じるが、これは前述の文字・言葉・図像の関係に立ち戻ることになるため、ここでは答えられない。図20は賢者の石のシンボルであって、金・銀・水銀のシンボルの組み合わせである。これはその後人型の図に変えられていく。

問題4:「図像」の類型学的名称
 これまでの節では図像imageという言葉を区別なく用いてきたが、ここで類型学的な名称についての問題を扱う。
 最近の研究の多くは、テクストでなく図の体裁をとったもの全てに、symbolimageBildなど、単一の包括的な用語を用いてきたが、そのような用語の使用は、技術に関する文献におけるより詳細な定義によって衰えている。一方歴史家は、用語の類型化を比較的ためらいがちであった。ここから、過去も現在も認識的図像においては標準的な語彙や合意された類型学は存在しないといえる。また、現在使われている用語が過去に使われていた用語と一致しない点も問題を悪化させている。
 この不一致は3つの原理的要因による。1つ目は、歴史的資料そのものが用語的正確さを欠いていることである。例えばFiguraという言葉は現在のimageとほぼ同じ意味だが、sicut haec figura docetというフレーズにおけるfiguraは、テクストを伴うこともある数学的・図表的・表象的図表のいずれも含んでいた。2つ目は1つ目と反対に、過去の人物は用語を厳密に用いていても、それはあくまでその個人の用例の範疇を出ないことである。例えばBrunoは図像に関する用語として12以上定義したが、それは一般的なものではない。3つ目は1つ目と2つ目の複合であり、複数の人物がそれぞれの専門的な語彙を用いていて、それをまとめると用語が混乱することである。例えば、光が目に届くとはどういうことかを書いた記述で、「物の表象」といった意味の単語としてimago formasimulachrumなど6つも挙げられており、著者であるFabrizio di Acquapendenteが混乱しているのがわかる。

問題5:認識論と形而上学をもたない図像学はない
 Brunoが明確な定義で用語の分類を試みたのは、用語が手に負えないほど多様で曖昧だったからだった。彼が理解していたように、図像における用語は哲学的な枠組み、特に形而上学的・認識論的想定に依拠している。
 Aristotle主義者は、物事を認識するには五感があれば十分であり、事物を構成している微小粒子の構造のモデル化のような自然現象の視覚化は必要ないと考える。そのためAristotleGalenの著作あるいはその翻訳には、図がほとんどない。
 一方Descartesは、感覚は疑わしいものであるため、精神による表象によって世界を説明すべきだと考える。彼によれば、精神による表象は第二性質を生み出す微粒子と一致する。例えば色は、太陽光線の圧力が視覚器官に作用した結果、知覚の上でのみ生じる性質であるとされる(図21における線Gはこの太陽光線の圧力を示している)。「知覚できない微粒子の形や動きをどのようにしたら知りえるか」という問いは彼の中心問題であったが、それへの答えは生理学的な変化の機構(図22)、刻印imprintingのアナロジー(図23)などを用いた帰納的・確率的なprobabilisticものであった。また彼の哲学においては、我々の目の構造や機能は説明できても(図24)、なぜ現にこのように見えているかについては説明できない(見ている対象の本質について説明できないのは言うまでもない)。
 Descartesに限らず、ある人物の認識的図像を理解するには、その人物特有の哲学的文脈を踏まえる必要がある。例えばMarsilio Ficinoの文脈はAristotleDescartesのものとは全く異なり、生きている天体の想像や精神から送られたギフトを、石に刻んだ図像によって強めることができるとされる。石に刻まれる図像は幾何的なものである場合も、天体の比喩である場合もある(図25は土星の比喩である)。
 前述のBrunoFicino的な伝統に立っており、imagesignideaのそれぞれの間の関係やその対象との関係を明確化しようとした上に、図像学的用語が各人の形而上学や認識論に依存していることを当時誰よりも意識していた。ここで再度Brunoに立ち返ることにする。彼のOn the Composition of Images, Signs and Ideasでは、彼の様々なタイプの図像の関係が依拠している哲学的システムが示されている。まず新プラトン主義的な世界の3つの区分が提示され、1つ目はイデアのある神の世界、2つ目はイデアの痕跡traceを含む自然界natural world3つ目はイデアの影shadowのみが捉えられる、我々の魂が存在する世界である。我々の心はいわば生ける鏡であり、自然の事物natural thingsの図像image/imagoや神のdivine事物の影を映すものとされる。Brunoは、人間の心はそれらを映すだけでなく、それらを理論や実践において役立つような、より意味のあるimagesignideaを創り出せると確信していた(前述の彼による図像の12分類はここで導入される)。
 視覚世界が神の世界の一つの図像だと考えられる状況、言い換えれば心が物理的実態の視覚的認知に基づいてイデアを再構成する状況では、図像は増殖し、交差し、互いが互いの二次的・三次的鏡像になる恐れがある。そのため、図像を定義する際には視覚世界・神の世界との関係に注意しなければならない。したがってBrunoは「様々な[視覚的]指示の定義」を著したが、その語彙は哲学的要素に強く依拠していることがわかる。

対立からの証拠
 これまでの節で、[図像に関する]歴史的語彙の不正確性と流動性を見てきた。AristotleDescartesFicinoのいずれにおいても、figuraimagoも同じ意味をもたないし、科学的図像の名前・意味・地位のいずれもが図像の哲学的枠組みに依存している。そのように図像の意味が不確かであっても、図像の地位についての論争は数多く存在している。そのような論争は必ず、相反する科学的・哲学的理論同士の対立と同時に起こっている。
 論争の例の1つ目は、Ficinoが偶像崇拝として図像を用いているという非難に反論したというものである。2つ目は、Robert FluddKeplerの間のもので、Fluddが大-小宇宙のmacro-microcosmic哲学を図像で示そうとした一方、Kepler は幾何的な証明で対抗した。3つ目はThomas Browneが、動物についてのあり得ない描写に対して、(図が間違っているという点ではなく)[動物についての]理論的基盤を理解していないという点で非難したというものである。このように、図像による表象が理解されない原因を図像と理論どちらに求めるかは避けがたい話題であり、4つ目のAndreas Libaviusによる非難にも関係する。彼はギリシャの哲学者Anaxagorasの考えを示した図像で、不当に聖書が用いられていると考えた。5つ目はDescartesの微粒子を描いた図像に対するもので、とまどいを示したり、形而上学を排して理論を再構成したり、目に見えないものとして一笑に付したりといった反応があった。
 以上の例では、あるタイプの図像の正当性が問われている。認識的図像にある種の力を与えているのは何だろうか。また図像の力はテクストに由来するのだろうか、あるいは逆にテクストの力が図像に由来するのだろうか。

結論
 科学においては用語の正確な定義が不可欠である。それは認識的図像の分野でも同じはずだが、実際には用語の使用は洗練されておらず混沌としている。
 歴史的な話になると、用語をめぐる状況はさらに悪化する。機械によって生み出された図像の存在は中世・近世の研究の射程に入っておらず、図像が機能している認識的・形而上学的前提・図像を生み出した実践・図像の意味や含蓄は、推測困難なだけでなく、ほとんどの学者に関心をもたれない。歴史上のテクストと図像の扱いの差がそれを示唆している。この理由は、歴史上の図像の作り手・使い手自身が、図像の地位を定義せず曖昧なままにしたことにある。
 科学的実践における他の道具と同様に、図像は科学理論そのものにとってはあくまで補助的なものであり、したがって科学的に通意を向けるに値しないと見なされていた。しかし他の道具と同様、図像は科学の総体の一部を創り出すものである。
 新しいタイプの認識的図像が導入されている最中に、[図像の、それが前提としている]ある理論の中での地位・機能・役割がきちんと議論されるようにすることは重要である。普及している科学のパラダイムに新しい図像が受け入れられ、組み込まれると、図像は科学的実践の不可欠の要素となり、特定の哲学的前提は消失してしまうためである。多くの場合図像は、改めて問われることなく科学の重要な視覚的要素となり、歴史家は図像を正確に解読できなくなる。
 依然として欠けているのは認識的図像の哲学的歴史を描くこと、即ち著者や画家の認識的価値の理解や図像の機能性を反映し、思考を規定する様々な思想の分析的分類学を作ることである。

2015年8月27日木曜日

イントロダクション:人文学と科学 Bod and Kursell(2015) 【Isis Focus:人文学の歴史と科学史】

Rens Bod and Julia Kursell, 2015, Introduction: The Humanities and the Sciences, Isis 106(2): 337340.

C. P. Snowに端を発する「二つの文化」論争は過去のものとなった。科学史家はこれまで、科学への文化的・社会的影響や科学における人文学的手法の役割を指摘してきた。しかしながら、科学と人文学を対等にかつ統合的に描く歴史記述は未だなされていない。

人文学の歴史においても科学史においても、人文学あるいは科学とは何かが問題となる。人文学は、神ではなく人間を、自然ではなく人間の文化を、計測や計算ではなく理解や解釈という人間の試みを対象とし、Diltheyの述べるところのGeisteswissenschaftenに言い換え可能であると説明される。しかし、少なくとも今日の英語における人文学humanitiesという言葉は、学問領域と同時に学問領域の対象をも指す点や、学問分野として何を含むかに関して議論がある点で、早い時代においてのみならず今日においても曖昧さをもつ。同様に、初期近代までの科学史は、今日多かれ少なかれ堅牢だと思われる科学という概念について、その境界線はそれほど昔から続いているものではないことを指摘している。さらに、より時代を遡れば、科学と人文学の境界もはっきりとは引けない。このことは、科学と人文学の共通の歴史の必要性を示している。
本特集では、19世紀から今日まで続いている科学と人文学の区別は、両者を統合する歴史を描く試みにとって何を意味しているか、という問いを検討する。

本特集に寄せられた論考では、科学と人文学の間の区別の過程やそれらの統合の可能性を論じている。BouterseKarstensは、19世紀後半に科学と人文学の区別がどのように決定的となったのかを調査した上で、両方にまたがる心理学に着目してその区別を再考する。KursellHelmholtzの音楽研究を取り上げ、音楽学においては後に科学と人文学に区別されるアプローチが混在していたことを示す。Bodは情報技術における形式論formalismや様式patternが人文学に由来することを指摘し、形式論や様式のレベルにおける人文学の歴史と科学史の比較の枠組みを提案する。DastonMostは、人文学の歴史を科学史に含み込むことへの賛否両論をまとめた上で、両者の対等な形での統合に向けて、科学史家と文献学の歴史家の協力を構想する。

人文学と科学の歴史を統合するという目標は、人文学の歴史はそれ自体で研究され得ない/されるべきでないということを意味するわけではない。人文学の歴史と科学史がどうすれば互いに実りを得られるのかを考え続けることが課題である。

人文学の歴史と科学史の比較枠組み Bod(2015) 【Isis Focus:人文学の歴史と科学史】

Rens Bod, 2015, A Comparative Framework for Studying the Histories of the Humanities and Science, Isis 106(2): 367377.

科学史においては短いスパンを扱う研究はもちろん、長いスパンを扱う研究が必要不可欠である。それは人文学の歴史においても同じであり、近年長いスパンを扱う研究が登場してきた。
その中で明らかになってきたのは、人文学と科学はその区別がなされる前も後も、見識や方法を伝達し合うなど、互いに影響し合っているということである。しかし人文学の歴史と科学史は、それぞれ別々に研究されている。人文学と科学の間の伝達を記述するためには、歴史の長い期間を検証する比較の枠組みが必要である。
本稿では、方法あるいはその背後にある形式論formalismや規則システムrule systemのレベルでの伝達に焦点を当て、様々なディシプリンにおける例を概観する。

言語学とコンピュータサイエンスにおける文法形式論
情報技術の発展はコンピュータサイエンスによるものであり、一見そこに人文学は関係ないように思われるが、プログラミング言語の発展の基盤となる形式論を生み出したのは人文学(言語学)である。
人間の言語は規則のシステム(=文法)として記述できるが、現存する最古の文法はインドの文法学者PaniniB.C.500頃)による著作に見られる。Paniniの規則システムは、無限にあるサンスクリット語の文を有限個の規則で記述し、ある単語やフレーズの繋がりが文法的に正しいか判定できる。
文法という考え方は、1950年代の言語学的概念が自然科学や社会科学に導入される流れの中で、高級プログラミング言語にも用いられるようになった。最も成功した高級プログラミング言語といわれるALGOL60には、Paniniに端を発する文法概念が応用されている。プログラミング言語と人間の言語は、それらが従う規則そのものだけでなく、規則が表現される形式論においても同一性をもっている。
このように文法という形式論においては、言語学とコンピュータサイエンスは深い共通性をもっている。

文献学と生物学における歴史系統樹と系統学的規則
1950年代には、生物学においても言語学的比喩やアナロジーが用いられた。これは、前節で述べたように言語学的概念がコンピュータサイエンスなどに導入され、そこからさらに分子生物学に導入されたことによる。分子生物学は言語学に加えて、系統文献学stemmatic philologyからも影響を受けている。
系統文献学は、系統樹を作り、テクストの原型を推定するための理論である。ある配列の複製のされ方やその際に出たエラーの説明の仕方の規則や手順は、テクストだけでなくDNAにも応用可能であった。このような生物学における文献学的概念の使用は、形式論だけでなく規則まで一緒に導入された点で、言語学とコンピュータサイエンスの間にあった以上の同一性をもっている。
さらに、生物学に導入された系統学は分岐論に導入され、分岐論が文献学や言語学に技術的・概念的影響を及ぼしている。このような相互作用は、言語学とコンピュータサイエンスの間にも見られる。

人文学と科学に共有される他の形式論と規則システム
人文学と科学に共有されている形式論や規則システムは他にもいろいろある。
まず歴史学の分野では、Rankeに始まる原典批評という方法論が挙げられる。これは抽象的な文法や系統樹といった形式論ではないが、原典を批判的に評価するための規則システムであり、根拠に基づいた医療・法科学・法学など広い分野で用いられている。
さらに、特に古い物としてはAlbertiに始まる線遠近法が挙げられる。この規則システムはヨーロッパの絵画・芸術における大変革だけでなく、遠近法の数学的研究にも繋がった。
また音楽における、単純な整数比に基づいてハーモニーが生まれるという形式論は、長い間支配的であり、宇宙のモデルは17世紀末までこれに基づいていた。
一方、人文学由来の形式論の影響は、言語学的系統樹が「科学的」人種差別主義に結びつくなど、必ずしもポジティヴなものばかりではないことにも留意すべきである。
映画研究やテレビ研究など人文学の比較的新しい分野で用いられている、形式論や規則システムの例もある。それらが将来他のディシプリンでも用いられるようになるかも、いずれわかるだろう。

結論
本稿では、形式論という概念のレベルで異なるディシプリンを比較できること、方法・形式論・規則のレベルにおける(人文学と科学の間の)伝達が継続的かつ長期的なものであること、形式論と規則のレベルのみが類似性でなく同一性を明らかにするであろうことを論じた。また、人文学から科学や社会に伝達された方法・形式論・規則の影響が想像以上に大きいことも明らかにした。

科学史は人文学の歴史を考慮することなしには通覧できない。ホイッグ史観に陥ることなしに科学史と人文学の歴史を統合することが将来の課題であろう。