イアン・ハッキング『表現と介入』渡辺博訳、筑摩書房、2015年、79–95ページ。
読書会で担当した部分のまとめです。
第2章 基礎単位となることと原因となること
イントロダクション
「実在的[本物]」という言葉は、自然科学においてどんな用法をもっているだろうか。この言葉で満ちている実験にかんする談話を二つ挙げよう。一つは細胞生物学において、標本にした細胞の顕微鏡写真に規則的に見られる繊維の網は本物ではなく、標本に生じた人為構造であると述べるものである。もう一つは物理学における自由クォークが(批判的な人々から見れば)本物ではなく、これまで知られていなかった新しい電磁力であると述べるものである。
では「実在的[本物]」とは何を意味するのだろうか。J・L・オースティンは最も優れた簡潔な考察を行っている。彼の『知覚の言語』の第7章で述べられている方法論上の規則は、「われわれは「本物のクリームではない」のようなさり気ないおなじみの言い回しをことさら蔑むことさえないものとして片づけてしまってはならない」というものと、「単一の、明確に述べることのできる、常に同一な意味」を捜してはならないというものである。即ち彼は、言葉の使用のなかにある規則性を体系的に研究することを要求する一方、同意語を捜すことのないよう警告する。また、彼の「実在的[本物]」という言葉にかんして4つの観察を行っているが、そのうちの2つは特に重要である。1つ目は、「実在的[本物]」という言葉は名詞欲求型である、即ち「それは本物だ」という言葉を適切に理解するには名詞が要求されるというものである。2つ目は、「実在的[本物]」という言葉は否定主導語である、即ち「本物のS」の意味は「本物のSではない」という否定形に由来するというものである。「本物の」という言葉は文脈によって何を否定するかが変わるが、それは「本物の」という言葉が曖昧なためではなく、「本物の」という言葉の意味が、修飾している名詞に依存するためである。「本物の」という言葉が様々な仕方で用いられていることのみを理由に、様々な種類に実在があるに違いない、と考えられがちだが、「本物の」という言葉自体は、名詞が変わっても多義的な意味をもつわけではないのである。
以上を踏まえて、特に専門化した議論においては「実在の[本物の]」という言葉でどんな対照が考えられているのかを明らかにする必要がある。では、理論的対象が本物の対象である/ないとすれば、そのときどんな対照が考えられているのだろうか。
唯物論
J・J・C・スマートは『哲学と科学的実在論』(1963)で前述の問いに応じている。彼によると反実在論者は、電子を恒星、惑星、山、家、テーブル、砂粒、微細結晶、細菌[などの実在的と考えられる対象]とは別物だと主張しているが、それらは突き詰めれば電子からできているため、したがって反実在論者は誤っている。また「実在的」という言葉はある対照を指定しなければならず、またすべての理論的対象が実在的であるわけではない。例えば彼によれば、磁力線は実在的ではない。一方、力線という概念を最初に考案したファラデーは、晩年、力線が実在的だと考えていた。このことは、実在にかんする考えには、[スマートが考えていたような]基礎単位building blockという水準を超えているものもあるという事例を示している。
スマートは、物理的なものは電子などからできているという考えに基づいている点で唯物論者であるといえる。一方、バークリーは反唯物論者であり、またファラデーは唯物論者ではない。
ベルナール・デスパーニアの『物理的実在』には、唯物論者にならずに科学的実在論者でいられるという論証がある。即ち「実在的」という語においてスマートとは別の対照を指定できると述べている。またスマートの区別は、社会科学や心理学の理論的対象が実在的であるかを論じるのには役立たない。チョムスキーは『ことばと認識』(1980)で認知心理学における実在論を主張しているが、彼は脳が組織化された物質でできていることだけでなく、それが思考という現象の「原因」となることも考えている。この「原因」という言葉は、科学的実在論の別の解釈を促す。
因果主義
類比的に、実在的なものの因果的な力を強調する者を因果主義者と呼ぶことにする。ここで2つの事例を挙げる。アメリカ産科婦人科学会は、生理用タンポン使用と中毒性ショックの間にある連関があることは認めたが、原因と結果の明確な関係があるとは認めなかった。また、核弾頭を装備したミサイルが化学的爆発を起こした後、近隣の村民が体調不良に悩まされたが、アメリカ空軍は原因と結果の関係を否定した。これらは、われわれは相関関係を完全に否定することを相関関係の断定から区別すること、また相関関係を原因から区別することを示している。因果主義者はこの部分を特に重視する。
ナンシー・カートライトは因果主義者であるといえる。彼女によれば、あるタイプの出来事がある結果を生み出すという理解の明白な証拠は、ある種類の出来事を別の種類の出来事を生み出すのに用いることができることである。さらに、何かを実在的だと呼び得るのは、それが基礎単位だからではなく、因果的な力をもつからである。例えば電子や陽電子は、ニオブの小滴に吹きつければ電荷を変化させることができるため実在的といえる。この見方に従うと、ファラデーは非唯物論者かつ因果主義者といえる。
対象であって理論ではない
ここで、対象にかんする実在論と理論にかんする実在論を区別する。今まで登場した唯物論者も因果主義者も、対象について述べていた。
前述のカートライトは、理論にかんしては反実在論者であり、対象にかんしては実在論者であるといえる。彼女曰く、諸々のモデルや理論は、現象を理解し実験場の技術を組み立てるのに役立つ知性の道具であり、諸々の過程に介入したり新しい現象を作り出したりできる。しかし厳密に真なる法則は存在せず、諸々の結果を生み出すのは電子など[の実在的なもの]である。これは、ヒューム以来の経験論の伝統に対する驚くべき反転である。そのような伝統においては、実在的なのは規則性だけだからである。
このような反転の可能性はヒラリー・パトナムに多くを負っている。彼によれば、理論語が特定の理論から意味を得るという観念を拒否し、現象によって事物の観念を定式化することは可能である。また、理論的対象を用いてはじめて事を行うことができるようになる。そして、理論的対象にかんする様々な説明はどれも、自然に介入する際に実際に用いることができる因果的な力を記述する。
物理学を超えて
因果主義者は[唯物論者と異なり]、超自我や後期資本主義[などの、社会科学や心理学における理論的対象]が実在的かどうかを考察できるが、それらについての因果的理解はもち合わせていない。また因果主義は、社会科学にとって未知のものではない。マックス・ウェーバーは理念型の学説を抱いており、「理念的」という言葉を「実在的」と対立するものとして用いている。ここでいう理念とは、人間精神の創案であり、思考の道具である。ウェーバーがマルクスについて考察している記述から、次のような教訓が得られる。①スマートのような唯物論者は、社会科学上の対象の実在性に直接的な意味を与えることができない。②因果主義者にはそれができる。③因果主義は実際には理論的社会科学のどんな対象の実在性も拒否するかもしれない。結果的に唯物論者と因果主義者は同様に懐疑的かもしれない。④理念型にかんするウェーバーの学説は社会科学上の法則に対して、否定的な形で因果主義的態度をとる。例えば、マルクスの理念型は因果的な力をもたないため実在的ではないと主張する。⑤因果主義者は、ある物理科学は因果的性質がよく知られている対象を見出しているが、ある社会科学は見出していないという理由で、後者を前者から区別するかもしれない。
少なくともある科学的実在論では「実在的」という言葉をオースティンとほぼ同様に使用できる。前述のように、スマートにとって対象とは基礎単位となるためのものであり、カートライトにとって対象とは原因となるためのものである。両者はいくつかの対象にかんして科学的実在論者だが、「実在的」という言葉を異なった対照をもたらすものとして用いているため、両者の「実在論」の内容は異なる。次に、同じことが反実在論でも起こっていることを見ていく。
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