E. Christian Brugger, “D. Alan Shewmon and
the PCBE’s White Paper on Brain Death: Are Brain-Dead Patients Dead? ,” Journal of Medicine and Philosophy, 38(2013):
205–218.
卒論で言及した論文のまとめです。2008年に出された米大統領評議会白書の内容は、全脳死基準に対するアラン・シューモンの批判を乗り越えようとしているものの、シューモンの批判は依然として有効であることが指摘されています。
1. 脳死に関する大統領生命倫理評議会(PCBE)
2007年11月、[米国]大統領生命倫理評議会(以下PCBEとする)は脳死の話題を取り上げた。大統領評議会で脳死が取り上げられたのは、1981年の『死の定義における医学的・法的・倫理的問題に関する報告書』(以下『報告書』とする)以来である。『報告書』では、1983年に公表されたいわゆる「ハーバード基準」の理論的根拠となる、死の定義の神経学的基準が提示された。
『報告書』は、死は全脳の機能の不可逆的喪失によって示され、ハーバード基準がその喪失の指標となっていることを主張している。また、脳を身体の統合性の「管理者regulator」と定義し、さらに死を身体の統合性の喪失と定義することで、全脳が不可逆的に機能停止すれば有機体即ち人間は死に至ると結論している。これは死の「生物学的定義」と呼ばれており、脳が全体的・不可逆的に破壊destructionされている患者はこれを満たしていると『報告書』は論じている。
2. シューモンの異議
PCBEでは2007年秋の会合に向けて「死の定義における論争」と題した白書の草稿の回覧が行われた。当時[死の]神経学的基準に異議が出ていたことから、PCBEは全脳の不可逆的破壊と有機体の生命との関係について熟考しようと努めたものの、草稿の内容は『報告書』の内容を再度主張するものだった。2007年11月9日、PCBEは草稿へのコメントを求めるべく、UCLAメディカルセンターの小児神経学の教授であるD・アラン・シューモンを招致した。彼は死の神経学的根拠の著名な批判者である。彼は会合の冒頭で、白書で支持されている「生物学的基準」は米国・英国両方で支配的であり彼自身の見解とも一致するものの、脳の破壊はこの基準を満たしていないと述べた。
シューモンは、1980年代には死の定義として大脳死基準(死を[大脳の]新皮質の機能に帰着させる)を採っていた。しかし皮質を持たない水無脳症児を診たことをきっかけに、大脳死基準を放棄し、全脳死基準を擁護するようになった。そして1992年には、全脳破壊と診断された後も生命維持処置を続けられた少年を診たことから、彼は全脳死基準も放棄することとなった。少年は亡くなるまでの間、身体の統合性を比較的高水準で示したため、シューモンは、死に至ると身体の統合性が失われるという考えと神経学的基準はいずれかが間違っていると考え始めた。さらに彼は、頸髄損傷[=脊髄損傷のうち首の部分の脊髄の損傷]と全脳死の生理学的影響は、意識の有無以外全く同じであることを発見した。頸髄損傷の患者は意識があるが死んでいると言うのは馬鹿げており、したがって意識の有無以外それと同一である全脳死患者を死んでいるとは言えないとして、彼は全脳死基準を放棄すべきだと結論した。
シューモンはPCBEの会合において、脳死した身体は統合性を失っているという見方とはっきり矛盾する症例をいくつか提示した(ホメオスタシスを維持する・成長する・麻酔なしで切開すると循環器とホルモンに反応が出る・妊娠を継続する・第二次性徴を示すなど)。また彼は、身体の統合性は、脳によるトップダウン式で局所的な機構ではなく、身体の全ての部分の協働による非局所的な機能であり、脳はあくまで調整役にすぎないと指摘した。彼のプレゼンはPCBEのうち数人を著しく当惑させたものの、それによって、脳が破壊されれば身体のシステムがばらばらになるという考えが崩されたとは誰も考えなかった。
2008年12月、PCBEは脳死に関する白書(以下WPとする)を公表した。白書で脳死論議への近年の異議を扱うのに費やされている努力に、PCBEがシューモンの主張をいかに真剣に取り上げているかが表れている。
3. 2008年のPCBE白書
WPは全7章からなり、第4章で「全脳不全(total
brain failure、以下TBFとする)の患者は本当に死んでいるのか」という中心的な問いを扱っている。これへの応答として、シューモンの見解とPCBEの統一見解という、対立する2つが述べられている。
全脳死基準の初期の擁護者の主張は以下のようなものであった。生命ある有機体living organismであるためには、その存在は生命ある統一体wholeでなければならない。身体の個々の部分が生きていることと有機体として生きていることは別である。したがって有機体としての死は、生命ある組織全ての破壊ではなく、統合された身体の生気unified bodily animationの停止と同一視されるべきである。生命ある有機体の統一性living organismic wholenessは統合された身体活動integrated somatic
activityによって示され、また脳は身体の統合性を支配する器官master organと考えられている。したがって、全脳が破壊されれば統合性の源が破壊され、身体の活動はばらばらになり、全体としての有機体organism as a wholeは存在しなくなる。
シューモンの挙げた症例は、全体としての有機体に統合性を与えるのは脳であるという想定を放棄するよう迫るものである。彼は脳活動と身体の統合性との間に必ずしも関係があるわけではないと主張する。例えばTKという患者は、4歳から20年にわたって人工呼吸器を装着していたが、ホメオスタシス維持など身体の統合性と呼べる機能を示した。しかし彼の検死解剖の結果、脳や脳幹は消失しており、残骸も石灰化していた。ここで、TKの身体が示していた統合性は、全体としての生命ある有機体whole living
organismの存在の指標といえるのかという問いが生じる。これに対する立場は2つに分かれるが、1つは統合性を全体としての生命ある有機体の存在の指標とみなし、TKのような患者を[生命ある]人間とみるものである。
WPは、統合性が全体としての生命ある有機体の存在の指標であるなら神経学的基準は放棄されねばならないことを認める上に、脳は支配役ではなく調整役であるというシューモンの主張も受け入れる。その一方、「統合性」という概念および脳がその「統合者」であるという想定を破棄し、「より説得的な」理論的証拠を提示する。即ち、我々は有機体の生死を「生命ある有機体の基本的な生命活動vital workの持続あるいは停止」と同一視するため、そのような生命活動の停止の現れを死の臨床的基準とすればよいというものである。
ここでいう「生命活動」は自己保存活動、つまり意識のある生物が行う多くの活動(食べる、寝る、服を着る、入浴するなど)として現れる。またそれらは、有機体が外界と相互作用する際の内的な強欲求felt inner needの現れである。言い換えれば、生命ある有機体は、生命をもたない存在物と異なり、外界と相互作用するための強欲求felt needをもち、生命を維持するための資源を求めて活動する。これこそが有機体の基本的な活動であるとWPは述べている。
有機体がこの活動を行うにあたっては、次の3つの能力が仮定されている。(1)外界からの信号や刺激を受け取ること、世界への開放性opennessをもつこと。これはPVS[遷延性意識障害]の患者にも見られる。(2)基本的欲求を獲得するために周囲の環境で活動すること。自発呼吸が典型例である。(3)有機体が強欲求を経験すること(その際必ずしも意識がなくてもよい)。即ち、環境への受容力・環境における活動・外界とのやりとりのための強欲求の経験である。WPは、これらのいずれもが脳死患者には見られないと指摘し、脳死患者は人工呼吸器によって死が訪れているという事実が隠されている「人工物」であると結論している。
4. WPの議論を評価する
WPは自発呼吸を、3つの能力が損なわれていないことの証拠として非常に重要視している。生命を維持する酸素への強欲求を経験することで、身体は行動を起こし外界から資源[=酸素]を獲得する。またWPは自発呼吸と人工呼吸器による呼吸を明確に区別し、前者を全体としての有機体である確かなサインであると見なす一方、後者は強欲求によるものではなく人工的なものであり、全体としての有機体のサインではないと主張している。
シューモンは自発呼吸の重要性に疑義を抱いている。子宮内の胎児や人工心肺装置を装着した患者は、気体の出入りがなくても生きており、身体的に統合されているからである。また彼がより重視するのは細胞レベルでの呼吸であって、それは脳死した身体でも行われているものである。しかしWPは、自発呼吸のない状態での酸素の交換は、強欲求を欠いており、生命活動の単なる真似事であると主張している。
批判
有機体の「基本的活動fundamental
work」という言葉はWP特有のものだが、3つの能力として示されている言葉の内実は新しいものではなく、ハーバード基準を哲学的に正当化するために焼き直したものである。2つを並べてみるとそれらの類似性が見えてくる。
○ハーバード基準:以下の観察可能な徴候は全脳の損傷の確実な指標であり、これらが確認されたとき「死は宣言され、その後人工呼吸器はスイッチを切られる」。
・無感覚…外部からの刺激や内的な欲求に対して全く気付かないこと。
・無反応…最も痛みの強い刺激に対しても全く反応がないこと。
・無体動…自発的な筋肉の運動、自発呼吸、刺激への反応がないこと。
・無呼吸…自発呼吸が完全に消滅していること。
・無反射…瞳孔が固定・散大し光源に反応せず、眼球の動きや瞬きもないこと。
○WP:以下の三つの表現は有機体の生命ある活動が停止していることを保証する。
・無感覚…外界からの信号や刺激を全く受容しない。瞳孔が固定・散大して光源を追わず、痛みを避けず、液体を飲みこまず、外界へのどんな開放性も示さない。
・相互作用がないこと/無反応…基本的欲求に対し完全に受動的である。自発呼吸を全くしようとしない。
・強欲求がないこと…周囲の環境に手を伸ばしたり自己保存の資源を獲得したりするための強欲求に全く気付かない。
両方とも死の訪れの指標が示されている。前者は脳の永続的な機能停止を診断するための臨床的指標であり、それは患者の死と一致すると想定されていた。後者は生命に不可欠な能力の喪失の現れであり、「有機体の生命活動」という格調高い言葉を用いることで、前者で問題となった「全脳の不可逆的破壊に陥った人はなぜ死んだとされるのか」という問いに対して「脳死の身体は生命活動が停止しているから」と応答している。
ここではハーバード基準のTBF診断に対する妥当性や、WPによる死の哲学的定義の妥当性を問うことはしない。ここで問いたいのは次の二つの想定である。(1)TBFに陥った患者は生命活動を決定的に停止している。(2)したがって、そのような患者は実際に死んでいると道徳的に確信できる。
WPでは脳死した身体は有機体として生命活動を停止していると論じているが、脳死した身体は別の仕方でそれを示していると考えられる。例えばホメオスタシスの維持や塩分・尿素の尿による排泄は、そのような能力の現れであるといえる。また栄養摂取も例の一つである。脳死患者は食べたり飲んだりできないが、体内に機械的に栄養が供給されれば、身体は複雑な消化活動を行う。さらに、傷が治ることも例の一つであろう。外界からの侵襲にさらされると、身体は複雑な過程を経てかさぶたを作ったり傷の修復を行ったりする。同様の過程は脳死の身体が感染症と戦うときにも起こる。体は自己と非自己を区別し、自己を非事故から守るために攻撃する。
これらの例では有機体の「基本的強欲求」が感覚され、それによって身体の調整がなされている。しかし厳密にいえば、TBFの患者は知覚活動を示さないため「強欲求」をもたない。WPは、強欲求の感覚は必ずしも意識を伴うことを意味しないと述べて言葉の解釈を回避しているが、もしそうであればこの言葉は比喩的に解釈されねばならない。上記の例では、強欲求は潜在的に危険なあるいは有益な生物学的過剰あるいは欠乏の身体的現れであると想定されているが、これらはまさに脳死した身体でも起こっていることである。また脳死した身体が示す生理学的調整は、外界との相互作用を構成し、WPが生命の明らかなサインだとするものである。したがってWPはこのような言葉の解釈は広すぎるとして退けるだろう。
またWPでは、強欲求の典型例は自発呼吸であるとされているが、なぜ呼吸動因drive to breatheがホメオスタシス制御などの他の動因とは異なるのかについて、実質的な議論は示されていない。
さらに、脳死患者は欲求に応答する能力をもたないと述べる以上のこと、即ち脳死患者が酸素への欲求を経験していないことまでは言えないと思われる。意識のある無呼吸の患者は、脳死患者と同様に自発呼吸をしないあるいはできないが、酸素を肺に送れば患者の身体は必要なものを吸収し、高酸素状態と低酸素状態の間のバランスを取る。同じことがTBF患者の身体でも起こっているのではないか。
5. 結論
有機体は、各部分が全体のために機能する生命ある身体であるため、身体の非組織化は有機体の死であるといえる。しかしWPは、脳が身体機能の支配的な統合者であるという見方を廃棄しただけでなく、有機体の身体の統合性が停止することが死であるという考え方をも却下した。その考え方は、TBFの患者は死んでいるという直感を支える「全体性wholeness」を用いた説明と符合する。だが、脳死患者が脳によって調整されているわけではない高度な秩序を示しているなら、WPの結論は正当化できない。
現在の科学が、TBFの患者は生きているという明白な結論に達しているとは思わない。しかし現在の証拠は、彼らは必ずしも死んでいるとはいえないのではないかと疑う十分な根拠を提示している。それらの疑いが取り除かれるまで、彼らを生命ある人間として扱うことが倫理的である。
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