2016年12月9日金曜日

陪審制における確率概念の発展:ラプラスによる演繹 ハッキング(1999)第11章

イアン・ハッキング『偶然を飼いならす--統計学と第二次科学革命』石原英樹・重田園江訳、木鐸社、1999年、125–37ページ。

11章 何対何を多数決とすべきか

 確率算術とフランス司法の間には次の三つの段階があった。 
  • 1785年:フランスに陪審制もそれに関する経験も統計データもない時代。コンドルセは、12人の陪審制の場合10:2以上で多数決の判断を下すのが最適だとした(同時に30人の陪審制の方が良いと主張した)。 
  • 1815年:フランスに陪審制が存在し、悪夢のような経験はあったが統計データはなかった。陪審制には最初コンドルセのルールが採用されたが、後に複雑な条件の単純多数決に変更された。ラプラスは、単純多数決およびこの条件を批判した。 
  • 1837年:いくつかの制度に基づいた陪審制が作られ、それについての経験が蓄積され、統計データが公刊され始めていた。ポアソンはこれに基づいて、陪審制は単純多数決で決定すべきだとした。 

 本章ではラプラスに、次章ではポアソンに焦点を当てる。これらは対になっていると同時に、第89章の自殺統計以前と以後についての記述とパラレルになっている。自殺や犯罪などの逸脱の割合が規則性を持つか否かに関する議論が後世に大きな影響を及ぼした一方、陪審制の数学的研究はほとんど影響しなかった。 

 確率概念が発展する上で、証言・議会・陪審制は重要な役割を担ってきた。証言に関する問題は、まずこの人は(どのくらい)信用できるのかという経験的なもの、次に証言相互の組み合わせ(①同じ事件に対する何人かの異なる証言の組み合わせ、②異種の証拠の組み合わせ、③証言の証言の評価)という論理的なものがある。初期には③の問題が多く浮上したが、これは理性を賞賛するためであった。 
 陪審制の判決を左右する主要な変数は、①選択肢の数、②規模[人数]、③何対何を多数決とすべきか、である。陪審制は1791年に憲法に組み込まれたが、この法律はコンドルセに多くを負っていた。彼は、有罪と無罪の誤審の見込みを共に確定する道徳的決定が与えられれば、最適な陪審制度を計算で導けると考えていた。彼は(30人の陪審の方が良いものの)12人の陪審においては、10:2が有罪判決に充分な比率だとした。 
 しかし陪審制はほぼ毎年改定され、1808年法典では、有罪判決は7:5の単純多数決とされたが、ここには議論の余地の大きい条件が付随していた。ラプラスは、この陪審制において誤差の可能性が1/3近くもあると計算し(「恐ろしい」数値である)、1815年頃から厳密な考察を開始した。 
 ラプラスは、各陪審員が確率で測定できるようなアプリオリの信頼性を持っていると考えた上で、①被告が実際に罪を犯している確率は1/2、②陪審のアプリオリな信頼性は1/21の間、③陪審のアプリオリな信頼性は1/21の間で一様に分布している、という三つの仮定を立てた。これに基づいた計算の結果、陪審が7:5で有罪判決を下しても、実際には罪を犯していない可能性が約2/7も存在する。しかしこのような議論に対し官僚たちは興味を持たなかった。 
 ラプラスの、全ての陪審員が等しい(未知の)信頼性を持っているという暗黙の仮定は、ほとんど数学的な便宜に過ぎなかった。M. V. オストログラツキーは、この仮定を取り払うと、212:20012:0は同じ信頼性を持つことになると指摘した。現在からするとオストログラツキーが間違っていたことは明白だが、ラプラスはこの点について多くのページを割いて議論している(読者にとってこれは自明ではないと考えている)。 
 ラプラスの演繹は経験による裏付けがなく、純粋な理屈だった一方、次章で述べるポアソンは経験的データを用いていた。ポアソンはラプラスが考えていたほど誤審率は大きくないと推測し、1835年に単純多数決を支持した。ポアソンの数学的に洗練された研究はただし、情報と統制の道具として意図されたものだった。

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