イアン・ハッキング『偶然を飼いならす--統計学と第二次科学革命』石原英樹・重田園江訳、木鐸社、1999年、116–24ページ。
第10章 信憑性がなく、詳細も分からず、統制を欠いた、価値のない事実
数字が法律制定の指標になるという考えや統計法則についての考えは出てきていたが、統計的推論はほとんど存在していなかった。その典型は医学であり、数字が医療行為や治療方法に影響することは全くなかった。
医療行為の評価のために統計データが利用されたのはF. -J. -V. ブルセに関してが最初である。彼は「医学革命」の人物として知られており、疾病に関する新しい器質的「生理学」理論の信奉者だった。 彼によれば、あらゆる病気は局所的な原因、すなわち組織の「刺激状態irritation」(血流が多すぎる)か「衰弱asthénie」(血流が少なすぎる)によって起こる。しかし疾病の在所である器官やそれに関連する組織は、身体の奥にあって直接治療できない。そのためそこに一番近い表面に治療を施し、器官や組織から余分な血液を取り除くこと[瀉血]がなされた。蛭を用いた放血は1815~35年のフランスにおいて最も広く行われたが、これはブルセが広めたためである。
ブルセには敵が多く、保守派・折衷派の医学からも批判されていた。A. ミケルは、統計から見ればブルセの治療法は有効とは言えないと断言したが、ブルセの同盟者L. -C. ロシュはこれに反論した。「計量的方法」の創始者であるとされているP. C. A. ルイは、1828年から蛭による放血治療の統計的評価を行い、瀉血は全体として効果がないと結論した。しかし医学の領域に限れば、ブルセが破滅したのは大量の数字のためではなく、著名な友人がコレラで亡くなったためであった。
当時、統計はレトリックの道具ではあっても科学的なツールにはなっていなかった。ウィリアム・コールマンによれば「経験的な生理学や医学の領域で統計的手法が用いられるようになるのは、1900年以降に新しい技術が導入されてからのことである」。 しかし技術がなかったことに加えて、医学的事実の概念化をめぐる問題もあった。1835年にモンティヨン賞を受けた、ジャン・シヴィアルによる二つの結石手術の方法の比較によると、伝統的方法では5,433人のうち1,024人[約18.8%]が死亡したのに対し、新しい方法では307人のうち7人[約2.3%]しか死亡していなかった。シヴィアルがモンティヨン賞に応募した際、審査員たちはシヴィアルの業績を評価するとともに、ミケルやルイのような業績は全て〈信憑性がなく、詳細も分からず、統制を欠いた、価値のない事実〉でしかないと言い放った。しかし信憑性に満ちた統制された事実など存在しえただろうか。
審査員たちはシヴィアルの業績のようなものがもっと出てくるべきだとは思っていなかった。統計的推論においては「人の個性をはぎ取る」ことが必要なため、統計が応用可能なのは多くの階層classesが存在する場合に限られる。しかし医学においては、別々の個人についてのデータがいくら増えても、それは治療したい患者とは無関係である。[治療したい患者についての]確率計算を行うには[患者自身についての]事実があまりにも不足している[、というより不足せざるをえない]。
人間に関わる事象において統計の利用が始まったのは、まさに人の個性を奪い去るために考案された制度、すなわち法廷においてである。
0 件のコメント:
コメントを投稿