2016年12月9日金曜日

陪審制における確率概念の発展:ポアソンによるデータの使用 ハッキング(1999)第11章

イアン・ハッキング『偶然を飼いならす--統計学と第二次科学革命』石原英樹・重田園江訳、木鐸社、1999年、138–53ページ。

12章 大数の法則

 1826年以降、司法省から後半と有罪判決の数を中心としたデータが公表されていた。これを用いてポアソンは1837年に「大数の法則」を証明し、非常に稀な事象に関する数学的表現(ポアソン分布)を与えた。これは1835年の陪審の投票についての論争に向けて書かれている、道徳科学に関する作品であった。彼は新しい統計学を駆使した一方で、「理性にかなった計算としての1650–1840年の古典的確率論」に属していた。 
 ポアソンとA. A. クルノーは、偶然chanceと確率probabilitéを別のものとして論じている。確率が信頼性や理性にかなった信念の度合いを意味する一方、偶然はある事象の客観的な特性すなわちそれが生起する「起こりやすさ」を意味する。ポアソンは確率に対して、「主観的」(probabilité)態度と「客観的」(chance)態度の間で釣り合いを保っていた。 
 [確率概念の]初期にはこの二つの側面について人々は無関心だったが、ラプラスは主観的な概念としてprobabilitéを定義し、そちらを重視した。しかし1830年代から19世紀末までの時期には、これが逆転し、「客観的」概念[chance]が「主観的」概念[probabilité]より重要視された。この逆転は、1820年代にフーリエが確率を大量の社会現象に応用し、客観的計算を行ったことに端を発していると考えられる。 
 「客観」確率[chance、頻度]と「主観」確率[probabilité、信念]の根本的区別は、モデル化か推論かにある。ポアソンは陪審の信頼性を客観的事実だと仮定し、その行動をモデル化した。次に彼は陪審員の信頼性を統計的に予測したいと考えた(これはデータからの推論である)。彼はこの推論に対して「客観的」確率についての「主観的」確率つまりchanceについてのprobabilitéを設定した。 

 ポアソンは単純多数決を陪審の基準とするのが正しいことを示そうと考えていた。彼によれば、陪審の行動は二つの未知のパラメータで決まっている。 
  r:陪審の平均的信頼度 
  k:被告が実際に罪を犯している事前確率 
彼はこれらではなく、実際に罪を犯している被告が有罪判決を受ける確率、特に単純多数決で決まる陪審の信頼性を知りたかった。 
  p g, i:被告が実際に罪を犯している場合に、ちょうどg:iの多数決で有罪になる確率 
  P g, i:被告が実際に罪を犯している場合に、少なくともg:iの多数決で有罪になる確率 
 司法省のデータからは、毎年の様々な種類の犯罪についての 
  C g, i:少なくともg:iの多数決で有罪になった被告の割合 
しか得られず、 
  c g,i:ちょうどg:iの多数決で有罪になった被告の割合 
も不明だった。しかしコンドルセはcrを結ぶ方程式を立てており、c 7,5がわかれば、現実の有罪判決比率からkを推定でき、rについての方程式を解くことができ、p 7,5が求められ、誤審の確率[1-p]もわかる。 
未知のc 7,5が核となるが、rが毎年同じだと仮定すると、c 7,5=C7,5-C 8,4であり、またC 8,4とC 7,5はデータから求められる。ここでrは本当に一定なのかという疑問が出てくるが、ポアソンはこれを高い(主観)確率で計算できるとし、有意な変動を数学的に測定し除外した。 
 その結果、単純多数決[7:5]の陪審の事例における誤審の確率[1-c 7,5]は、財産に対する犯罪では0.0382、人間に対する犯罪では0.16271/8より少し大きい)であった。ラプラスは7:5制度の誤審率を2/78:4制度だと1/8だと計算していたので、ラプラスに依拠して少なくとも有罪判決に8:4が必要だと主張していた人も、単純多数決で満足すべきということになる。 

 ポアソンの問題は各陪審員がそれぞれ等しい信頼性を持っているモデルだと理解されているが、オストログラツキーが批判したように、信頼性は当然まちまちである。ポアソンの大数の法則はまさにこの問題を解くために導出された。彼は、信頼性は陪審員によって異なっているが、そこに何らかの法則(確率分布)が存在する状況をモデルとしている。 
 ポアソンは、経験は事実を立証し、数学は同じ事実を証明するという態度を取っており、必然的なものと偶然的なものの間の区別で悩んだりはしなかった。彼は「大数の法則」を「誤ることのない経験的事実である」と考え、それは道徳的な事柄でも物理学でも立証された。 
 ポアソンの大数の法則はアカデミーの議論の的にはなったものの、人々は彼に対して批判的であり、関心も持続しなかった。ポアソンのような道徳科学は根絶され、陪審の問題は数学的衒学者のお遊びとなった。しかしそれにもかかわらず、[フランス全体を見れば]「大数の法則」は用語として定着し、経験的事実を超えた、事物がどのようにあらねばならないかを述べたものとみなされた。大数の法則は、集団現象の安定性の主張として、次世代以降アプリオリな真理となった。

陪審制における確率概念の発展:ラプラスによる演繹 ハッキング(1999)第11章

イアン・ハッキング『偶然を飼いならす--統計学と第二次科学革命』石原英樹・重田園江訳、木鐸社、1999年、125–37ページ。

11章 何対何を多数決とすべきか

 確率算術とフランス司法の間には次の三つの段階があった。 
  • 1785年:フランスに陪審制もそれに関する経験も統計データもない時代。コンドルセは、12人の陪審制の場合10:2以上で多数決の判断を下すのが最適だとした(同時に30人の陪審制の方が良いと主張した)。 
  • 1815年:フランスに陪審制が存在し、悪夢のような経験はあったが統計データはなかった。陪審制には最初コンドルセのルールが採用されたが、後に複雑な条件の単純多数決に変更された。ラプラスは、単純多数決およびこの条件を批判した。 
  • 1837年:いくつかの制度に基づいた陪審制が作られ、それについての経験が蓄積され、統計データが公刊され始めていた。ポアソンはこれに基づいて、陪審制は単純多数決で決定すべきだとした。 

 本章ではラプラスに、次章ではポアソンに焦点を当てる。これらは対になっていると同時に、第89章の自殺統計以前と以後についての記述とパラレルになっている。自殺や犯罪などの逸脱の割合が規則性を持つか否かに関する議論が後世に大きな影響を及ぼした一方、陪審制の数学的研究はほとんど影響しなかった。 

 確率概念が発展する上で、証言・議会・陪審制は重要な役割を担ってきた。証言に関する問題は、まずこの人は(どのくらい)信用できるのかという経験的なもの、次に証言相互の組み合わせ(①同じ事件に対する何人かの異なる証言の組み合わせ、②異種の証拠の組み合わせ、③証言の証言の評価)という論理的なものがある。初期には③の問題が多く浮上したが、これは理性を賞賛するためであった。 
 陪審制の判決を左右する主要な変数は、①選択肢の数、②規模[人数]、③何対何を多数決とすべきか、である。陪審制は1791年に憲法に組み込まれたが、この法律はコンドルセに多くを負っていた。彼は、有罪と無罪の誤審の見込みを共に確定する道徳的決定が与えられれば、最適な陪審制度を計算で導けると考えていた。彼は(30人の陪審の方が良いものの)12人の陪審においては、10:2が有罪判決に充分な比率だとした。 
 しかし陪審制はほぼ毎年改定され、1808年法典では、有罪判決は7:5の単純多数決とされたが、ここには議論の余地の大きい条件が付随していた。ラプラスは、この陪審制において誤差の可能性が1/3近くもあると計算し(「恐ろしい」数値である)、1815年頃から厳密な考察を開始した。 
 ラプラスは、各陪審員が確率で測定できるようなアプリオリの信頼性を持っていると考えた上で、①被告が実際に罪を犯している確率は1/2、②陪審のアプリオリな信頼性は1/21の間、③陪審のアプリオリな信頼性は1/21の間で一様に分布している、という三つの仮定を立てた。これに基づいた計算の結果、陪審が7:5で有罪判決を下しても、実際には罪を犯していない可能性が約2/7も存在する。しかしこのような議論に対し官僚たちは興味を持たなかった。 
 ラプラスの、全ての陪審員が等しい(未知の)信頼性を持っているという暗黙の仮定は、ほとんど数学的な便宜に過ぎなかった。M. V. オストログラツキーは、この仮定を取り払うと、212:20012:0は同じ信頼性を持つことになると指摘した。現在からするとオストログラツキーが間違っていたことは明白だが、ラプラスはこの点について多くのページを割いて議論している(読者にとってこれは自明ではないと考えている)。 
 ラプラスの演繹は経験による裏付けがなく、純粋な理屈だった一方、次章で述べるポアソンは経験的データを用いていた。ポアソンはラプラスが考えていたほど誤審率は大きくないと推測し、1835年に単純多数決を支持した。ポアソンの数学的に洗練された研究はただし、情報と統制の道具として意図されたものだった。

医療行為の評価における統計の利用 ハッキング(1999)第10章

イアン・ハッキング『偶然を飼いならす--統計学と第二次科学革命』石原英樹・重田園江訳、木鐸社、1999年、116–24ページ。

10章 信憑性がなく、詳細も分からず、統制を欠いた、価値のない事実

 数字が法律制定の指標になるという考えや統計法則についての考えは出てきていたが、統計的推論はほとんど存在していなかった。その典型は医学であり、数字が医療行為や治療方法に影響することは全くなかった。 
 医療行為の評価のために統計データが利用されたのはF. -J. -V. ブルセに関してが最初である。彼は「医学革命」の人物として知られており、疾病に関する新しい器質的「生理学」理論の信奉者だった。 彼によれば、あらゆる病気は局所的な原因、すなわち組織の「刺激状態irritation」(血流が多すぎる)か「衰弱asthénie」(血流が少なすぎる)によって起こる。しかし疾病の在所である器官やそれに関連する組織は、身体の奥にあって直接治療できない。そのためそこに一番近い表面に治療を施し、器官や組織から余分な血液を取り除くこと[瀉血]がなされた。蛭を用いた放血は181535年のフランスにおいて最も広く行われたが、これはブルセが広めたためである。 
 ブルセには敵が多く、保守派・折衷派の医学からも批判されていた。A. ミケルは、統計から見ればブルセの治療法は有効とは言えないと断言したが、ブルセの同盟者L. -C. ロシュはこれに反論した。「計量的方法」の創始者であるとされているP. C. A. ルイは、1828年から蛭による放血治療の統計的評価を行い、瀉血は全体として効果がないと結論した。しかし医学の領域に限れば、ブルセが破滅したのは大量の数字のためではなく、著名な友人がコレラで亡くなったためであった。 
 当時、統計はレトリックの道具ではあっても科学的なツールにはなっていなかった。ウィリアム・コールマンによれば「経験的な生理学や医学の領域で統計的手法が用いられるようになるのは、1900年以降に新しい技術が導入されてからのことである」。 しかし技術がなかったことに加えて、医学的事実の概念化をめぐる問題もあった。1835年にモンティヨン賞を受けた、ジャン・シヴィアルによる二つの結石手術の方法の比較によると、伝統的方法では5,433人のうち1,024[18.8%]が死亡したのに対し、新しい方法では307人のうち7[2.3%]しか死亡していなかった。シヴィアルがモンティヨン賞に応募した際、審査員たちはシヴィアルの業績を評価するとともに、ミケルやルイのような業績は全て〈信憑性がなく、詳細も分からず、統制を欠いた、価値のない事実〉でしかないと言い放った。しかし信憑性に満ちた統制された事実など存在しえただろうか。 
 審査員たちはシヴィアルの業績のようなものがもっと出てくるべきだとは思っていなかった。統計的推論においては「人の個性をはぎ取る」ことが必要なため、統計が応用可能なのは多くの階層classesが存在する場合に限られる。しかし医学においては、別々の個人についてのデータがいくら増えても、それは治療したい患者とは無関係である。[治療したい患者についての]確率計算を行うには[患者自身についての]事実があまりにも不足している[、というより不足せざるをえない] 
 人間に関わる事象において統計の利用が始まったのは、まさに人の個性を奪い去るために考案された制度、すなわち法廷においてである。