Chapter 5. Monsters: A Case Study 前半 (pp. 173–90)
Introduction (pp. 173–7)
(1) 15世紀末から16世紀のヨーロッパ人たちの多くは、彼らの時代が以前より質的にも量的にも驚異に満ちていたwondrousと考えていた(ブロードサイドの例:p. 174、図5.1)。
(2) 中世のヨーロッパ人たちにとって自然の異兆は世界の辺境(アイルランド・アフリカ・アジアの植物・動物・鉱物)と結びついていたが、ルネサンス期には、それらは地中海とヨーロッパの中心に移行した。またそれに伴って異兆の特徴も変化している。異兆の典型例は、中世においてはブレミーやバジリスクなどの外国の種族exotic raceだったが、15世紀末から16世紀においては双頭の赤ん坊・人間と動物のハイブリッド・結合した双子だった。
(3) 異兆の地理的な分布が変化したことは探検のみに由来するわけではない。そのような変化は探検が始まったばかりの1490年代半ばには既に指摘されていた。もし仮にそうだとしても、個々の異兆(怪物だけでなく地震や火山の噴火なども)が強調されていたことが説明できない。
(4) 1章で論じたように、この種の個々の異兆は外国の種族とは異なった伝統と意味を持っている。外国の種族の伝統は、15〜16世紀にかけて、これまでの章で述べたような文化的文脈・重圧の中で発展・変化してきた。一方それは、1500年頃には、異兆の伝統の劇的な出現によって豊かになり、洗練された。
(5) なぜ(外国の種だけでなく個々の異兆も含む)全ての異兆は、初期近代のヨーロッパ人の意識に入り込んだのだろうか? 本章では奇形の誕生という異兆に着目して、初期近代の異兆への没入の軌跡を追うこととする。奇形を神のしるしやlusus naturaeと見なす説明は17世紀末まで見られる一方で、自然化(異兆を自然の原因で説明すること)は中世においてもなされていたのである。
(6) ここでは、解釈と感情の三つの複合物(恐怖・楽しさ・嫌悪)を見ていく。本章の最後の部分では、奇形いに対する宗教的な応答を自然主義的な解釈に先行しかつ劣ったものとする見方の起源を歴史的に論じる。異兆の自然化は17世紀末の知識人が全員一致で作り上げた幻想であり、異兆の自然化への動きよりむしろ、知識人の一致団結の方に説明が必要である。
(7) これ以降、前述の三つの複合物を順に論じていく。最初のもの[恐怖]においては、怪物は神の憤怒のしるしであり恐怖を引き起こす。次のもの[楽しさ]においては、怪物は温和な自然と慈悲深い神の装飾の戯れとされる。最後のもの[嫌悪]においては、怪物は医学・哲学・神学で冷淡さや嫌悪の対象である。
Horror: Monsters as Prodigies (pp. 177–90)
(1) 1512年3月、フィレンツェの薬剤師ルカ・ランドゥッチ(Luca Lunducci, 1436–1516)は、自身の日記にラヴェンナで誕生している奇形について書いている(p. 177–8、図5.2)。その18日後、ラヴェンナはローマ教皇軍・スペイン軍・フランス軍の連合軍に略奪されたが、彼は奇形がその前兆だったと考えていた。
(2) ランドゥッチの日記は、1章で述べた結合した双子に対する反応を思い起こさせる。その双子も不幸の前兆と考えられていた。どちらの奇形に関する知らせもすぐに手紙や絵、口づてで広められた。
(3) しかしランドゥッチの反応には、従来見られなかった重要な要素が含まれている。まず、ラヴェンナの奇形の知らせは以前より速く広く伝えられた。そして、ラヴェンナの奇形は独立した事例ではなく、多くの奇形の誕生や他の異兆の一つだった。
(4) 奇形や異兆の文化は15世紀後半のドイツとイタリアで急増したが、それは特定の政治的・宗教的・軍事的な出来事と関連していた。どちらの国の場合も、帝国や教皇の政治評論家は、広く行き渡った異兆の文化を参考にし、それを活気づけるようなパンフレットやブロードサイドを、洪水のごとく生み出した。
(5) どの社会においても、異兆や[それに基づいた]予言の文化は一つの階級や集団に限られたものではなく、博学な人文主義者や都市の商人・職人、また小作農や肉体労働者などの文字が読めない人々にも共有されていた。「予言のしるしのシステム」を構成する情報や想定は社会における多様な場所に広まっていた。
(6) 印刷されたパンフレットやブロードサイドは、長さや精巧さにおいて様々だった。単に記述的なものもあれば(p. 178、図5.2.2)、道徳的な説明や寓意に満ちているものもあった(p. 174、図5.1)。しかし[奇形の]誕生が引き起こす感情についての記述はほぼ全てのもので一致している。それは激しい恐怖だった。
(7) この恐怖は単にカテゴリーが混同されていること(動物と人間、男性と女性など[のハイブリッドであること])に由来しているのではなく、むしろ道徳的な規範に背いたことに基づいている。ヨーロッパのキリスト教徒は、奇形を、人間の罪に対する神の罰だと捉えていた。
(8) 奇形の誕生の注釈者の多くは、近づいている災厄を知らせることしかしなかったが、神の怒りを引き起こした罪を推測し、それを奇形の外形と結びつける者もいた。
(9) 奇形の外形が重要であったことは、奇形の誕生についての記録の多くが図像を伴っている理由を説明する。それらの図像は、同時代に記憶のために用いられた図像(p. 178、図5.2.3)や、異教徒の偶像や悪魔(pp.184–5、図5.3)を思い起こさせる。それによって奇形の誕生は罪や罰との結びつきを強めている。
(10) 同時に、奇形や他の異兆の図像は、記録の権威やその感情的な影響を強めている。図像によって、直接目撃していない人でも[奇形の]誕生の恐怖を経験することができる。目撃者や場所・日時への言及は同様の効果を狙っていると考えられる(p. 186、図5.4)。
(11) 16世紀の異兆についての専門書を著した人々は、異兆をより詳細に探究した。最も影響力があったものの一つは、アルザスの人文主義者かつプロテスタント学者のコンラート・ヴォルフハルト(Konrad Wolffhart, 1518–1561、ギリシャ名のリュコステネスLycosthenesとして知られている)のProdigiorum ac ostentorum chronicon(1557)である。
(12) リュコステネスにとって創造は統一であり、道徳の世界を反映して物質の世界が創られている。人間の罪が道徳的秩序の不和であるのと同様、異兆は物質的秩序の不和である。
(13) リュコステネスは他の書き手と同様に、奇形や他の前兆の多くが自然の原因を持つことを否定しない。一方で彼はそのような原因を決定するのは困難であり、彼はそれを重視しないと述べている。
(14) 16世紀の異兆の書き手たちの大半はこのような考え方に同意していたが、時が経つにつれて彼らの分析の方向には、それとは別の変化があった。奇形に読み込む罪の種類が変わったのである(ソドミー・貪欲・高慢・世俗的であること→不敬・宗教的過ち・異端・陰謀・扇動)。この変化は、宗教改革期の社会の宗教的・政治的緊張を含んだ雰囲気を反映している。16世紀半ばの書き手たちは、奇形や他の異兆が頻発していることを終末論の枠組みで理解し、世界の終わりが差し迫っていると考えていた。
(15) 初期近代のキリスト教徒による異兆の解釈は外部の出来事と密接に結びついていたため、17世紀末まで奇形や他の異兆の「自然化」「合理化」の明確なパターンを見つけるのは難しい。奇形を前兆と解釈し恐怖の対象とする見方は、ゆっくりと消えていくのではなく、特定の地域の状況に対応して再び目立ってきた。
(16) ドイツは、イタリアと同様15世紀末に奇形に夢中になったが、その関心は17世紀まで続いた。この期間、奇形の文化的意味付けは状況とともに変化していった。1520年代はじめの、マルティン・ルターの賛同者と反対者の戦争の中で出されたパンフレットには、修道士と教皇の堕落への神の叱責を表す二つの奇形が描かれている(p. 188、図5.5)。シュマルカルデン戦争や三十年戦争の間にも多くの異兆が記録された。一方フランスとイングランドにおいて異兆は、フランスの宗教戦争やエリザベス女王の即位、イギリス大内乱の文脈で、1560〜70年代に栄えた。
(17) 全6巻のHistoires prodigeuses[『異兆誌』]は、奇形に関する著述に対する政治的・宗教的状況の影響を網羅的に扱っている。最初の2巻(1560, 1567)は奇形や他の異兆を神の罰と結びつけているが(p. 184、図5.3.1)、それほど不吉でない他の解釈も提示している。
(18) 同書の3〜5巻は1575〜82年に出されたが、この時期はフランスの宗教戦争の絶頂であった。それによれば全ての奇形は異兆であり、キリスト教徒に悔い改めるよう忠告するために神が遣わしたものである。一方6巻は、戦争が一時中断されている1594年に出されており、それまでの巻が読者を退屈させたのではないかと述べ、異兆の描写で読者を楽しませることを約束している。つまりこの巻は、異兆が恐怖だけでなく楽しさも引き起こすことを示している。