アルフレッド・W. クロスビー『数量化革命--ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』小沢千重子訳、紀伊國屋書店、2003年、37–70ページ。
第1部 数量化という革命--汎測量術(パントメトリー)の誕生
第2章 「敬うべきモデル」--旧来の世界像
パントメトリー、ミリオーネ(Milione、1000の1000倍)などの新たな造語は、方向を変えつつあった西ヨーロッパ社会と、中世とルネサンス期の西ヨーロッパ人の大部分が正しいと考えていた世界像との摩擦の結果生まれたものと言える。そのような旧来の世界像をここでは「敬うべきモデル」と呼ぶことにする。
「敬うべきモデル」が提示した構造とプロセスは、人間が知的に理解できるとともに感情的にも受け入れられるものだった。例えば、原初から終末の日までの時間や宇宙の空間的巨大さは、人間が理解可能な範囲を超えるものではないと考えられていた。また西ヨーロッパ人たちは、現実世界を時間と場所によって差異のある不均質なものと見なしていた。
「敬うべきモデル」を受け入れていた人々は象徴的な表現を好んだ。例えば、イエスが磔刑に処せられたエルサレムこそが、地球上で人間が住む地域の中心でなければならなかった。また、歴史は全て、旧約聖書の『ダニエル書』に由来する「四世界帝国論」の枠組みに組み込まれていると考えられていた。
ここで「敬うべきモデル」を、時間・空間・数学と言う三つの側面から吟味してみる。ローマ帝国の崩壊から中世を経てルネサンスに至る1000年間を通覧し、西ヨーロッパ人のものの見方がどれほど広く、そして長く受け入れられていたかという基準から、本書で扱う素材を選ぶことにする。
まず時間について考察する。ヨーロッパ人は、人間に与えられた時間(原初から終末の日までの時間)はそれほど多くないと考えていた一方で、そもそも時間については深く考えないのが普通だった。通常日付は漠然としか表されていなかったし、その混沌とした時間概念のために、当時の出来事は正確に時系列的に考察できるわけではない。個人の生涯より長い時間は、救済と断罪のドラマのステージとして思い描かれていた。
西ヨーロッパ人はこのような時間のステージを数通りに区分した。しかしどのような区分法においても、それぞれの時代は質的に、さらには時として量的にも異なると見なされていた。それは彼らが時系列的な因果関係という明確な概念を有していなかったことに起因する。ある時代から次の時代への移行は急激に、唐突に訪れるものだった。
カエサルによって新たに制定されたユリウス暦は、西ヨーロッパ人に受け継がれ、その後1500年以上にわたってキリスト教世界の標準的な暦になった。しかしこの改暦によっても時間の区切り方に関する問題が解決したわけではなかったし、そもそもこの暦も実際の時間とのズレが残っていた。これは、年ごとに変動する復活祭の日取りを正確に決める必要のある聖職者たちにとっては重要な問題だった。彼らは慣習と太陰暦と太陽歴を組み合わせたルールを編み出したが、これを用いても日取り決めは困難であり、天文学者や数学者を悩ませた。
当時ヨーロッパ人は時刻を知るために、教会の鐘の音を用いていた。教会の鐘は一日七回の祈祷時(七定時課)に、時刻のように厳密な点ではなく、一定の幅を持った時間の中で鳴らされていた。noon(正午)の語源は定時課のnone(九時課)であり、当初九時課を告げる鐘は15時前後に鳴らされていた。しかしそれが中世の間に次第に早くなり、12世紀には正午頃(六時課)に鳴らされるようになった。この原因は修道士の断食の期間を短くするため(九時課の鐘がなるまで食事が取れなかった)と考えられるが、ダンテは六時課の六が高貴な完全数であったためだと述べている。このようなnoonの時刻の変遷は、中世のヨーロッパ人が時間の正確さには無頓着で、その象徴的価値を重視していたことを示している。
中世のヨーロッパ人は、時間が輪のように循環すると考えていた点で現代人と酷似している。しかし彼らはキリスト教徒であるために、始まりと終わりをもつ直線的な時間という概念を神聖視していた。
次に空間について考察する。中世とルネサンス期において宇宙は、最外殻をなす球体の中に、多数の球体が入れ子状に収まっていると考えられていた。それらの球体は完全に透明であり、それぞれ天球を担っている。そしてこれらの天球と天体は全て、完全な円運動をする。なぜなら天体は完全なものであり、一方円はもっとも完全で高貴な形であるからである。また天体と天球は全て、完全な元素である第五元素で構成されている。
一方、月の天球より下(月下界)に存在するものは四元素で構成されており、いずれも変化し、高貴ではない。また月下界で自然に生じる運動は不完全な直線方向の運動である。また月下界は一様ではなく、気候・植物相・動物相に地域差が存在し、また地理や基本方位にさえも質的な差異があると見なされていた。
地理に関する情報が乏しかったため、当時地図は極めて単純なものだった。何世紀にもわたって、通常はエルサレムを中心に描いたTO地図が世界地図として珍重されていたが、13世紀には最新版の世界地図としてエプシュトルフ地図が用いられた。これには近くにあるものと遠くにあるもの、そして重要なものと重要でないものについて情報を提供する意図があったが、その表現方法が非定量的・非幾何学的であるため、表現主義派の画家が描いた肖像画のような印象を与えるものである。
最後に数学について考察する。数量の表現方法ほど、中世とルネサンス期の西ヨーロッパ人と現代人のものの考え方の違いが際立っているものはない。西ヨーロッパ人たちは数量を正確に表現する姿勢を受け継いでいなかったが、それには物事を数学的に表現するための明確かつ簡潔な手段がないという背景があった。彼らがローマ帝国から受け継いだ記数法は、市での計算や地方税の徴収以上の規模になると十分な役割を果たせなかった。
中世のヨーロッパ人は数の表記にローマ数字を用いたが、計算の際には手の指を使い、より複雑な計算には計算盤(アクバス)を使用した。指や計算盤を用いると、桁の値やゼロの概念を知らなくても計算をすることができた。計算盤は、西暦500年〜1000年頃まで西ヨーロッパで使われた形跡が認められないが、フランスの修道士ジェルベールによって復活させられた。11〜12世紀には初歩的な計算に関する論文のほとんどが計算盤の使用法について論じたものとなり、16世紀には計算盤は西ヨーロッパ全域に広がっていた。
中世の西ヨーロッパ人が数や量を論理的に考察できなかった原因は、一つは彼らが無知だったことにある。しかしそれ以上に大きな原因として、数が単に量を表すものではなく、特定の性質と結びつけられていたことにある。彼らは数に対して、詩人が言葉に対してもつような感性を発揮していた。
ここまで「敬うべきモデル」を吟味してきたが、その真の問題点は、神と神の目的があらゆるものを覆っているということである。当時のヨーロッパ人が構想した宇宙は、様々な特性を備えており、数量によって構成されているものではなかった。
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