2016年9月28日水曜日

16世紀西ヨーロッパのマンタリテとしての数量化 クロスビー(2003)第1章

アルフレッド・W. クロスビー『数量化革命--ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生小沢千重子訳、紀伊國屋書店、2003年、1536ページ。

第1部 数量化という革命--汎測量術(パントメトリー)の誕生

第1章 数量化するということ

 9世紀の時点では、西ヨーロッパ人はムスリムから鈍重で粗野だと評されていた。しかし16世紀には、彼らはある種の数学と新たな機械技術の分野で世界的に優れた存在となった。この間に西ヨーロッパ人はどのような進歩を遂げていたのだろうか? また彼らのマンタリテ(心性、精神構造やものの考え方)にはどのような変化があったのだろうか? まずは変化の結果であるところの、16世紀の西ヨーロッパ人のマンタリテを検証する。

 ここではピーテル・ブリューゲルが1560年に制作した銅版画『節制』から、当時の社会を考察してみることにする。画面上部中央では、天文学者や地図製作者たちが測量を行っている。ブリューゲルは、彼の同時代人が当時の測量技術を誇らしく思っていると考えていたのだろう。
 画面上方右側には、大砲などの武器とそれを扱う人々が描かれている。この時代のヨーロッパ社会においては戦争が主要な関心事であり、銃や大砲などで武装した大量の兵士の編成を行うために、将校たちは代数や数字を扱わねばならなかった。
 上方右側の大砲の下では、五人の人物が大きな本(おそらく聖書)を読んでおり、その下では教師が子どもたちに文字の読み方を教えている。15世紀にはヨハネス・グーテンベルクによって印刷が可能になったが、彼の最も有名な印刷物がマザラン聖書である。
 下方左側では人々が一心不乱に計算を行っており、そのすぐ上にはこちらに背を向けた画家(ブリューゲル自身?)がいる。なおこの版画はルネサンス遠近法を敢えて破ることで、それぞれの情景が互いに重ならないような表現がなされている。
 画家のすぐ上方では人々が音楽に興じている。16世紀は教会の多声音楽(ポリフォニー)の黄金時代であり、その演奏には楽譜が不可欠だった。1573年にタリスによって作曲された『望みをほかに』は、音に対する数量的アプローチの頂点をなすものである。
 画面中央部には「節制」を象徴する女性が描かれており、彼女の頭上にある機械時計が、画面のまさに中央を占めている。機械時計は当時のあらゆる計量装置の中で、ヨーロッパ社会の性格を最も明確に表していた。
 このように『節制』の登場人物の多くは、現実世界の素材を均質な単位(ユニット)の集合体すなわち数量として、視覚的に表現する作業に従事している。これはルネサンス期の西ヨーロッパ社会の反映と見ることができる。

 しかし現実世界を認識するためのアプローチとして、数量的なもの以外を考えると、プラトンやアリストテレスが推奨したような反計量的・非計量的なものが存在する。彼らはあらゆるデータを、真の実在であると確信できるものとできないものという二つのカテゴリーに分類した。彼らが数量的に把握できる事物というカテゴリーを採用しなかったのはなぜだろうか?
 第一に、古代の人々は計量という概念を現代人よりはるかに狭く定義しており、もっと広く適用できる評価法の方を採用していた。例えばアリストテレスは、定性的な叙述・分析の方が定量的な手法より有用であると見なしていた。現代人は重さ・硬さ・温度などの性質は数量的に把握可能だと考えるが、そもそもどのようなものが計量の対象となるのかということ自体が大きな問題なのである。
 第二に、現代人は数学と物質世界が密接かつ直接的に結びついているということと、感覚を通じて認知できる世界を対象とする物理学は高度に数学的であるということを、自明のものとして受け入れているが、それ自体がむしろ驚嘆すべきことである。歴史的に見ても、抽象的な数学と実用的な度量衡学は、互いに引き付け合うと同時に反発し合う。しかし西ヨーロッパ人は数学と計測を結合させ、それを応用して、感覚的に認知できる現実世界を解釈するようになった。
 では西ヨーロッパ人はいかにして、なぜ、いつ、プラトンやアリストテレスのような反計量的・非計量的アプローチから脱却し、ブリューゲルの『節制』に示されるような数量的アプローチに達したのだろうか? 
 三つの問いの中で最も容易に回答しうる「いつ」という問題に、まずは取り組むことにする。1200年前後の西ヨーロッパには、数量的に構成された現実世界という概念をまともに考察する者は、ほとんどいなかった。しかし特に1275年から1325年の間の50年に、理論面はともかく応用面では、著しい変化が現れた。この時期にヨーロッパで最初の機械時計と大砲が作られ、ヨーロッパ人は数量的に把握できる時間と空間という概念を直視することになったのである(なおポルトラノ海図、遠近法、複式簿記も、この時期かその直後に、現存する最古の例が作られている)。さらに物事を数量的に考える兆しが現れたのは、西ヨーロッパの人口と経済成長が最初のピークに達した1300年前後のことだった。この兆しは、西ヨーロッパ社会が戦争や飢饉、黒死病といった相次ぐ恐怖に襲われた14世紀を通じて消えることはなかった。

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