2016年9月30日金曜日

数量化という変化の必要条件 クロスビー(2003)第3章

アルフレッド・W. クロスビー『数量化革命--ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』小沢千重子訳、紀伊國屋書店、2003年、71–101ページ。

第1部 数量化という革命--汎測量術(パントメトリー)の誕生

第3章 「数量化」の加速

 中世の西ヨーロッパ社会には、現実世界を定性的にではなく数量的に把握しようとする機運が芽生えていた。本書は、そのようなアプローチの変化あるいはそれを志向する傾向が、1250年前後から加速された状況を明らかにすること、さらにその加速の原因を解明することを意図している。
 本章ではそのような数量的なものの見方の背景を考察する。これは変化の必要条件であって十分条件ではないことに留意されたい。続く第4〜6章では、当時の人々が現実世界を数量的に把握しようとしたことを具体的に裏付ける事物を検証する。そして第2部の各章では、変化の十分条件を考察する。

 西暦1000〜1300年の間に、西ヨーロッパの人口は2倍ないし3倍に急増した。1300年代半ばには黒死病の流行でヨーロッパの人口の約3分の1が失われたものの、その後100年も経たないうちに人口は以前のピークを超え、都市が再び発展し始めた。西ヨーロッパ人は度々異教徒の土地と海路を侵略した。また西ヨーロッパでは農民と都市住民との交易が増大した。
 中世ヨーロッパ社会は農民・貴族・聖職者の三層で構成されていたが、この枠を超えた新たなタイプの人々が出現した。そのような人々は商人や法律家、写字生などを含んでおり、市の立つ町や城砦都市の都市の住民(ブルジョアジー)であり、読み書きと計算に秀でた実力主義のエリート階層を構成していた。彼らの多くは動力機械を用いた事業で富を築き、それによって社会的地位を得た。
 当時のヨーロッパ社会には、確固たる政治的・宗教的・文化的権威は存在しておらず、様々な組織の権威が錯綜し、それによって抑圧と均衡が保たれていた。その中でブルジョアジーたちは有力な派閥を形成し、政界で重要な地位についた。伝統的な指導者たちもブルジョアジーたちの富と技術に頼らざるをえず、彼らを抑圧することはできなかった。
 また当時のヨーロッパ社会では、社会的枠組みだけでなく知的枠組みも固まっていなかった。西ヨーロッパ文明は古代からの伝統をもっていない点で異色であった。そのため「敬うべきモデル」は外来の要素を多く含んでいた上に、本質的に相容れない要素(合理主義的なギリシア的要素と、神秘主義的なヘブライ的要素)を内包していたため、全体として調和がとれていなかった。そのため説明が一貫していなかったり、当面の要求に応えられない場合があった。
 12世紀には古代ギリシアとイスラームの著作のラテン語訳が、そして13世紀にはアリストテレスの全著作のラテン語訳が、それぞれ西ヨーロッパにもたらされた。アリストテレスの著作は精密な知識と高度に洗練された解釈の体系を有し、あらゆる事柄を説明していた。アリストテレスの明晰な説明を前にして、「敬うべきモデル」は説明する力を失った。
 西ヨーロッパ人はゆっくりと、現実世界を新たな見方で見るようになり始めていた。こうして形成された世界像を「新しいモデル」と名付けることにする。「新しいモデル」の際立った特徴は、正確さと物理的現象の数量的把握、そして数学を重視していることである。

 「新しいモデル」の形成に貢献したのは主に都市の住民であり、特に新興のエリート階級や文化的前衛のメンバーには注目する必要がある。彼らの生活拠点は、大学と市場のいずれかにあった。
 市場は以前から存在していたが、大学は西ヨーロッパで誕生した。12世紀前半は、学生たちが自発的に私塾の教師のもとに集まっていたため、教師と学生という身分は制度化されていなかった。しかし12世紀のうちに教師と学生のグループが統合され、大学として制度化された。その中で最も大きな影響力をもったのがパリ大学である。13世紀にはパリ大学は規模も大きくなり、高い評価を得ていたため、大学一般が西洋文明の永続的かつ不可欠な要素となる基盤が築かれた。
 大学の哲学と神学の教師は「スコラ学者」と総称され、中世の西ヨーロッパで最も影響力のある知識人だった。彼らは「新しいモデル」の祖父母の世代に属していたと言える。彼らはまず、古典古代の異教徒やイスラームの文化、そして過去のキリスト教世界から受け継いだ膨大な知的遺産を系統立てて整理するという難問に取り組んだ。その中で彼らが考案したのは、本文を章に分けてそれぞれにタイトルをつけるというやり方・欄外見出し・相互参照システム・引用文献の一覧表示・書物のアルファベット順の配列システム・書物の内容を小分けにして目次を示すというやり方など多岐にわたる。
 また彼らは論理における厳密さと表現における明快さの意義を再発見し、散文の中で緻密な思考を適切に表現するシステムを完成させた。これを極限まで推し進めれば数学に到達するが、その道のりは概念的には遠いものだった。スコラ学者は、定性的なものの見方をしたプラトンやアリストテレスのような哲学者の系統に属していたのである。
 14世紀には彼らは計測を伴わない数学を発展させ、特にイングランドでは、アリストテレスが諸性質と称した事象を考察する際に代数や幾何学が用いられた。一方ロジャー・ベーコンを筆頭に、事物を計測する例外的なスコラ学者も存在した。
 このように、スコラ学者が事物の性質を叙述する適切な表現方法を模索する過程で、事物を数量的に把握しようとする傾向が生まれた。

 このような傾向をもたらしたもう一つの原因は貨幣経済である。揺籃期の西ヨーロッパ社会では、金属貨幣は、それが含有する金属の価値以上の抽象的価値をほとんどもっていなかった。しかしムスリムとヴァイキングの侵略が止むと、封建領主はまがりなりにも法と秩序を確立し、農業の生産性が向上した。それによって供給が増大し、商業と都市が復興した。自治都市や国家は金属貨幣を作り始め、西ヨーロッパの貨幣は最も広く流通する通貨となった。
 こうして西ヨーロッパ社会はいつの間にか貨幣経済に移行した。そこでは日常用いられるあらゆる品物が、そして奉仕や労働の義務や時間までもが、価格として数量化された。
 やがて北イタリアの諸都市が、西ヨーロッパでは久しく途絶えていた金貨の造幣を開始した。これらの金貨は、素材の金の市場価値だけでなく、発行した市当局が保証する価値を保有すると見なされたため、西ヨーロッパに新しい抽象的な価値の尺度が出現した。さらに、状況が流動的であっても請求と支払いを行わざるをえないという状況が発生した際に、計算上でのみ存在する「計算貨幣」という概念が発展した。これはその後、信用ある金属貨幣の価値を基準として任意に定めた通貨の相対的な価値を示すようになった。

 このように現金を仲立ちとした貨幣経済の中で、西ヨーロッパ社会は物事を数量的に把握する習慣を体得した。しかしなぜ西ヨーロッパ社会では、貨幣経済への移行がこれほどの影響をもたらしたのだろうか? その一因は慢性的な金の不足である。貨幣経済移行当時は十分な貴金属の在庫がなく、16世紀に入るまで西ヨーロッパ社会は慢性的な支払い超過に悩まされていた。そして金利も高く設定されていた。西ヨーロッパ人ほど、金貨銀貨に心を奪われ、その重さと純度に気を回し、現金の代替物である為替手形その他の証書類について策略をめぐらせた人々、つまり計算にとりつかれた人々は、かつて存在しなかったのである。

2016年9月29日木曜日

「敬うべきモデル」の時間・空間・数学 クロスビー(2003)第2章

アルフレッド・W. クロスビー『数量化革命--ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』小沢千重子訳、紀伊國屋書店、2003年、37–70ページ。

第1部 数量化という革命--汎測量術(パントメトリー)の誕生

第2章 「敬うべきモデル」--旧来の世界像

 パントメトリー、ミリオーネ(Milione、1000の1000倍)などの新たな造語は、方向を変えつつあった西ヨーロッパ社会と、中世とルネサンス期の西ヨーロッパ人の大部分が正しいと考えていた世界像との摩擦の結果生まれたものと言える。そのような旧来の世界像をここでは「敬うべきモデル」と呼ぶことにする。
 「敬うべきモデル」が提示した構造とプロセスは、人間が知的に理解できるとともに感情的にも受け入れられるものだった。例えば、原初から終末の日までの時間や宇宙の空間的巨大さは、人間が理解可能な範囲を超えるものではないと考えられていた。また西ヨーロッパ人たちは、現実世界を時間と場所によって差異のある不均質なものと見なしていた。
 「敬うべきモデル」を受け入れていた人々は象徴的な表現を好んだ。例えば、イエスが磔刑に処せられたエルサレムこそが、地球上で人間が住む地域の中心でなければならなかった。また、歴史は全て、旧約聖書の『ダニエル書』に由来する「四世界帝国論」の枠組みに組み込まれていると考えられていた。
 ここで「敬うべきモデル」を、時間・空間・数学と言う三つの側面から吟味してみる。ローマ帝国の崩壊から中世を経てルネサンスに至る1000年間を通覧し、西ヨーロッパ人のものの見方がどれほど広く、そして長く受け入れられていたかという基準から、本書で扱う素材を選ぶことにする。

 まず時間について考察する。ヨーロッパ人は、人間に与えられた時間(原初から終末の日までの時間)はそれほど多くないと考えていた一方で、そもそも時間については深く考えないのが普通だった。通常日付は漠然としか表されていなかったし、その混沌とした時間概念のために、当時の出来事は正確に時系列的に考察できるわけではない。個人の生涯より長い時間は、救済と断罪のドラマのステージとして思い描かれていた。
 西ヨーロッパ人はこのような時間のステージを数通りに区分した。しかしどのような区分法においても、それぞれの時代は質的に、さらには時として量的にも異なると見なされていた。それは彼らが時系列的な因果関係という明確な概念を有していなかったことに起因する。ある時代から次の時代への移行は急激に、唐突に訪れるものだった。
 カエサルによって新たに制定されたユリウス暦は、西ヨーロッパ人に受け継がれ、その後1500年以上にわたってキリスト教世界の標準的な暦になった。しかしこの改暦によっても時間の区切り方に関する問題が解決したわけではなかったし、そもそもこの暦も実際の時間とのズレが残っていた。これは、年ごとに変動する復活祭の日取りを正確に決める必要のある聖職者たちにとっては重要な問題だった。彼らは慣習と太陰暦と太陽歴を組み合わせたルールを編み出したが、これを用いても日取り決めは困難であり、天文学者や数学者を悩ませた。
 当時ヨーロッパ人は時刻を知るために、教会の鐘の音を用いていた。教会の鐘は一日七回の祈祷時(七定時課)に、時刻のように厳密な点ではなく、一定の幅を持った時間の中で鳴らされていた。noon(正午)の語源は定時課のnone(九時課)であり、当初九時課を告げる鐘は15時前後に鳴らされていた。しかしそれが中世の間に次第に早くなり、12世紀には正午頃(六時課)に鳴らされるようになった。この原因は修道士の断食の期間を短くするため(九時課の鐘がなるまで食事が取れなかった)と考えられるが、ダンテは六時課の六が高貴な完全数であったためだと述べている。このようなnoonの時刻の変遷は、中世のヨーロッパ人が時間の正確さには無頓着で、その象徴的価値を重視していたことを示している。
 中世のヨーロッパ人は、時間が輪のように循環すると考えていた点で現代人と酷似している。しかし彼らはキリスト教徒であるために、始まりと終わりをもつ直線的な時間という概念を神聖視していた。

 次に空間について考察する。中世とルネサンス期において宇宙は、最外殻をなす球体の中に、多数の球体が入れ子状に収まっていると考えられていた。それらの球体は完全に透明であり、それぞれ天球を担っている。そしてこれらの天球と天体は全て、完全な円運動をする。なぜなら天体は完全なものであり、一方円はもっとも完全で高貴な形であるからである。また天体と天球は全て、完全な元素である第五元素で構成されている。
 一方、月の天球より下(月下界)に存在するものは四元素で構成されており、いずれも変化し、高貴ではない。また月下界で自然に生じる運動は不完全な直線方向の運動である。また月下界は一様ではなく、気候・植物相・動物相に地域差が存在し、また地理や基本方位にさえも質的な差異があると見なされていた。
 地理に関する情報が乏しかったため、当時地図は極めて単純なものだった。何世紀にもわたって、通常はエルサレムを中心に描いたTO地図が世界地図として珍重されていたが、13世紀には最新版の世界地図としてエプシュトルフ地図が用いられた。これには近くにあるものと遠くにあるもの、そして重要なものと重要でないものについて情報を提供する意図があったが、その表現方法が非定量的・非幾何学的であるため、表現主義派の画家が描いた肖像画のような印象を与えるものである。

 最後に数学について考察する。数量の表現方法ほど、中世とルネサンス期の西ヨーロッパ人と現代人のものの考え方の違いが際立っているものはない。西ヨーロッパ人たちは数量を正確に表現する姿勢を受け継いでいなかったが、それには物事を数学的に表現するための明確かつ簡潔な手段がないという背景があった。彼らがローマ帝国から受け継いだ記数法は、市での計算や地方税の徴収以上の規模になると十分な役割を果たせなかった。
 中世のヨーロッパ人は数の表記にローマ数字を用いたが、計算の際には手の指を使い、より複雑な計算には計算盤(アクバス)を使用した。指や計算盤を用いると、桁の値やゼロの概念を知らなくても計算をすることができた。計算盤は、西暦500年〜1000年頃まで西ヨーロッパで使われた形跡が認められないが、フランスの修道士ジェルベールによって復活させられた。11〜12世紀には初歩的な計算に関する論文のほとんどが計算盤の使用法について論じたものとなり、16世紀には計算盤は西ヨーロッパ全域に広がっていた。
 中世の西ヨーロッパ人が数や量を論理的に考察できなかった原因は、一つは彼らが無知だったことにある。しかしそれ以上に大きな原因として、数が単に量を表すものではなく、特定の性質と結びつけられていたことにある。彼らは数に対して、詩人が言葉に対してもつような感性を発揮していた。

 ここまで「敬うべきモデル」を吟味してきたが、その真の問題点は、神と神の目的があらゆるものを覆っているということである。当時のヨーロッパ人が構想した宇宙は、様々な特性を備えており、数量によって構成されているものではなかった。

2016年9月28日水曜日

16世紀西ヨーロッパのマンタリテとしての数量化 クロスビー(2003)第1章

アルフレッド・W. クロスビー『数量化革命--ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生小沢千重子訳、紀伊國屋書店、2003年、1536ページ。

第1部 数量化という革命--汎測量術(パントメトリー)の誕生

第1章 数量化するということ

 9世紀の時点では、西ヨーロッパ人はムスリムから鈍重で粗野だと評されていた。しかし16世紀には、彼らはある種の数学と新たな機械技術の分野で世界的に優れた存在となった。この間に西ヨーロッパ人はどのような進歩を遂げていたのだろうか? また彼らのマンタリテ(心性、精神構造やものの考え方)にはどのような変化があったのだろうか? まずは変化の結果であるところの、16世紀の西ヨーロッパ人のマンタリテを検証する。

 ここではピーテル・ブリューゲルが1560年に制作した銅版画『節制』から、当時の社会を考察してみることにする。画面上部中央では、天文学者や地図製作者たちが測量を行っている。ブリューゲルは、彼の同時代人が当時の測量技術を誇らしく思っていると考えていたのだろう。
 画面上方右側には、大砲などの武器とそれを扱う人々が描かれている。この時代のヨーロッパ社会においては戦争が主要な関心事であり、銃や大砲などで武装した大量の兵士の編成を行うために、将校たちは代数や数字を扱わねばならなかった。
 上方右側の大砲の下では、五人の人物が大きな本(おそらく聖書)を読んでおり、その下では教師が子どもたちに文字の読み方を教えている。15世紀にはヨハネス・グーテンベルクによって印刷が可能になったが、彼の最も有名な印刷物がマザラン聖書である。
 下方左側では人々が一心不乱に計算を行っており、そのすぐ上にはこちらに背を向けた画家(ブリューゲル自身?)がいる。なおこの版画はルネサンス遠近法を敢えて破ることで、それぞれの情景が互いに重ならないような表現がなされている。
 画家のすぐ上方では人々が音楽に興じている。16世紀は教会の多声音楽(ポリフォニー)の黄金時代であり、その演奏には楽譜が不可欠だった。1573年にタリスによって作曲された『望みをほかに』は、音に対する数量的アプローチの頂点をなすものである。
 画面中央部には「節制」を象徴する女性が描かれており、彼女の頭上にある機械時計が、画面のまさに中央を占めている。機械時計は当時のあらゆる計量装置の中で、ヨーロッパ社会の性格を最も明確に表していた。
 このように『節制』の登場人物の多くは、現実世界の素材を均質な単位(ユニット)の集合体すなわち数量として、視覚的に表現する作業に従事している。これはルネサンス期の西ヨーロッパ社会の反映と見ることができる。

 しかし現実世界を認識するためのアプローチとして、数量的なもの以外を考えると、プラトンやアリストテレスが推奨したような反計量的・非計量的なものが存在する。彼らはあらゆるデータを、真の実在であると確信できるものとできないものという二つのカテゴリーに分類した。彼らが数量的に把握できる事物というカテゴリーを採用しなかったのはなぜだろうか?
 第一に、古代の人々は計量という概念を現代人よりはるかに狭く定義しており、もっと広く適用できる評価法の方を採用していた。例えばアリストテレスは、定性的な叙述・分析の方が定量的な手法より有用であると見なしていた。現代人は重さ・硬さ・温度などの性質は数量的に把握可能だと考えるが、そもそもどのようなものが計量の対象となるのかということ自体が大きな問題なのである。
 第二に、現代人は数学と物質世界が密接かつ直接的に結びついているということと、感覚を通じて認知できる世界を対象とする物理学は高度に数学的であるということを、自明のものとして受け入れているが、それ自体がむしろ驚嘆すべきことである。歴史的に見ても、抽象的な数学と実用的な度量衡学は、互いに引き付け合うと同時に反発し合う。しかし西ヨーロッパ人は数学と計測を結合させ、それを応用して、感覚的に認知できる現実世界を解釈するようになった。
 では西ヨーロッパ人はいかにして、なぜ、いつ、プラトンやアリストテレスのような反計量的・非計量的アプローチから脱却し、ブリューゲルの『節制』に示されるような数量的アプローチに達したのだろうか? 
 三つの問いの中で最も容易に回答しうる「いつ」という問題に、まずは取り組むことにする。1200年前後の西ヨーロッパには、数量的に構成された現実世界という概念をまともに考察する者は、ほとんどいなかった。しかし特に1275年から1325年の間の50年に、理論面はともかく応用面では、著しい変化が現れた。この時期にヨーロッパで最初の機械時計と大砲が作られ、ヨーロッパ人は数量的に把握できる時間と空間という概念を直視することになったのである(なおポルトラノ海図、遠近法、複式簿記も、この時期かその直後に、現存する最古の例が作られている)。さらに物事を数量的に考える兆しが現れたのは、西ヨーロッパの人口と経済成長が最初のピークに達した1300年前後のことだった。この兆しは、西ヨーロッパ社会が戦争や飢饉、黒死病といった相次ぐ恐怖に襲われた14世紀を通じて消えることはなかった。