2017年3月1日水曜日

ヴェーラーの尿素合成にまつわる「神話」 Ramberg(2015)

Peter J. Ramberg, “That Friedrich Wöhler’s Synthesis of Urea in 1828 Destroyed Vitalism and Gave Rise to Organic Chemistry,” Ronald L. Numbers and Kostas Kampourakis eds., Newton’s Apple and Other Myths about Science (Cambridge, MA: Harvard University Press, 2015): 59–66.

 フリードリヒ・ヴェーラー(1800–1882)は、無機物であるシアン化アンモニウムから有機物である尿素が合成できることを発見した。それから数十年の間に化学者たちは、ヴェーラーの発見を、生気論の根絶および有機化学の誕生の印とみなすようになった。この、ヴェーラーの発見が生気論を打ち壊し有機化学を誕生させたという神話は、現代の有機化学の教科書の90%がそれに言及していることから、根強く残り続けていると言える。
 この神話は次の三つの要素からなっている。
(1)ヴェーラーは尿素を元素から合成した。
(2)この合成は有機化学と無機化学を同じ法則のもとに統一した。
(3)この合成は、生命をもつ有機体における「生命力vital force」という概念を打ち壊した(あるいは少なくとも弱めた)。
しかしこれらはそれぞれ次の点で疑わしい。
(1)’合成前の物質に「生命力」が残っていたかもしれないため、ヴェーラーの合成は人工的なものだとして却下された。
(2)’尿素の合成以前から、化学者たちは、有機化学と無機化学は化学結合の同じ法則に従うはずだという考えをもっていた。
(3)’「生気論」は単一の理論ではなく多様な考え[の総体]であり、ヴェーラーの合成後も生き残っていた。

 (1)’のように主張したのは化学史家のマッキー(1896–1967)である。彼は、ヴェーラーが合成に用いた物質は実際には有機物から得られたものであり、彼は尿素を元素から合成したわけではないことから、彼の合成は生気論を打ち壊すものとはなりえなかったと論じた。1960年代にはヴェーラーが「完全な」合成[尿素の元素からの合成]を達成したかどうかが歴史家や化学者の間で論争となったが、70年代には、それについて決着をつけるのは極めて困難であることが明らかになった。「人工的な」合成という言葉の定義の曖昧さは、神話の(1)の部分を必ずしも否定わけではないが、支持することもない。

 (2)’について、確かに19世紀初頭までは、有機物の性質やその合成可能性は不明確だった。だからと言って化学者たちが、化学結合に関する[無機物と]同じ法則に従うはずだという考えのもとで有機物を探求する方法をもたなかったわけではない。
 例えば1810年代には、シュヴルール(1786–1889)が動物性脂肪を化合物に分解してそれが一定の組成をもつことを明らかにし、脂肪が無機物と同様に化学合成の法則に従うことを示した
 同じ頃、[ヴェーラーの師である]ベルセーリウス(1779–1848)はドルトン流原子論の大家となり、原子の結合の比に関する法則を強固なものにした。彼は長い間有機化学と無機化学は同じ法則に従うはずだと考えていた。そして彼は、1814年に有機化学に転向して有機物中の炭素原子・酸素原子・水素原子の比を調べ、有機物は無機物と同様に一定の結合比をもつと結論した。ベルセーリウスは、自らの電気化学的二元論の法則が有機物にも適用可能であると考えていた。そして当時その適用がうまくいっていなかった理由は、有機物を結合させる独自の化学的力が存在するからではなく、有機物中の元素の結合比が無機物よりも複雑であるためだと論じた。

 (3)’に関して、この神話において見られる生気論のほとんどは、生命をもつもののみが有する神秘的・非物質的存在を想定している理論であるが、これはシュタール(1659–1734)などが擁護した極端なものである。他の自然哲学者はこれとは異なる生気論を主張しており、例えばハラー(1708–1777)やビシャ(1771–1802)は、非物質的存在ではなくニュートン的な重力に似たある種の力を想定していたし、ブルーメンバッハ(1752–1840)やライル(1759–1813)は、生命力を物理的・化学的要素の相互作用から生まれると考えていた(「生気論的唯物論」)。ベルセーリウス、そしてリービッヒ(1803–1873)もある種の生気論的唯物論を支持していた。
 生物学者の間では、生気論は盛衰を繰り返していた。ドリーシュ(1867–1941)は有機体の成長を方向づける非物質的要因である「エンテレヒー」の存在を提唱し、シュペーマン(1869–1941)は胚の成長に関する全体論的理論を展開した(これは生気論的だと誤解された)。また現代の「創発構造」や「自己組織化」といった概念は生気論的唯物論の復活とも言える。
 化学者が有機化合物の合成に成功していっても、有機物と無機物の間の隔たりはなくならなかった。パスツール(1822–1895)は、酒石酸には右旋性のものと左旋性のものがあり、かつ生物から分離した酒石酸はどちらか一方しか含まないことを見出した。彼はこのような分子の非対称性を無機化学と有機化学の境界だと考えた。ジャップ(1848–1928)はこの非対称性には非物質的な原因(神の意志)があると考えた。

 ヴェーラーに関する神話が生き残っている理由は、いくつかの目的にかなっているためである。有機化学者にとって、この神話は重要な仕事を成し遂げた英雄を示すとともに、有機化学のディシプリンとしての自律性を保証するものである。また特にドイツの化学者にとっては、自国の化学コミュニティの起源を定めるものである。一方生物学者にとって、この神話における生気論の単純化されたイメージは、生物学を「科学的な」ものにするにあたって生理学が化学や物理学の機械論的・数量的方法を採用した、という描像を引き立てるものである。

2016年12月9日金曜日

陪審制における確率概念の発展:ポアソンによるデータの使用 ハッキング(1999)第11章

イアン・ハッキング『偶然を飼いならす--統計学と第二次科学革命』石原英樹・重田園江訳、木鐸社、1999年、138–53ページ。

12章 大数の法則

 1826年以降、司法省から後半と有罪判決の数を中心としたデータが公表されていた。これを用いてポアソンは1837年に「大数の法則」を証明し、非常に稀な事象に関する数学的表現(ポアソン分布)を与えた。これは1835年の陪審の投票についての論争に向けて書かれている、道徳科学に関する作品であった。彼は新しい統計学を駆使した一方で、「理性にかなった計算としての1650–1840年の古典的確率論」に属していた。 
 ポアソンとA. A. クルノーは、偶然chanceと確率probabilitéを別のものとして論じている。確率が信頼性や理性にかなった信念の度合いを意味する一方、偶然はある事象の客観的な特性すなわちそれが生起する「起こりやすさ」を意味する。ポアソンは確率に対して、「主観的」(probabilité)態度と「客観的」(chance)態度の間で釣り合いを保っていた。 
 [確率概念の]初期にはこの二つの側面について人々は無関心だったが、ラプラスは主観的な概念としてprobabilitéを定義し、そちらを重視した。しかし1830年代から19世紀末までの時期には、これが逆転し、「客観的」概念[chance]が「主観的」概念[probabilité]より重要視された。この逆転は、1820年代にフーリエが確率を大量の社会現象に応用し、客観的計算を行ったことに端を発していると考えられる。 
 「客観」確率[chance、頻度]と「主観」確率[probabilité、信念]の根本的区別は、モデル化か推論かにある。ポアソンは陪審の信頼性を客観的事実だと仮定し、その行動をモデル化した。次に彼は陪審員の信頼性を統計的に予測したいと考えた(これはデータからの推論である)。彼はこの推論に対して「客観的」確率についての「主観的」確率つまりchanceについてのprobabilitéを設定した。 

 ポアソンは単純多数決を陪審の基準とするのが正しいことを示そうと考えていた。彼によれば、陪審の行動は二つの未知のパラメータで決まっている。 
  r:陪審の平均的信頼度 
  k:被告が実際に罪を犯している事前確率 
彼はこれらではなく、実際に罪を犯している被告が有罪判決を受ける確率、特に単純多数決で決まる陪審の信頼性を知りたかった。 
  p g, i:被告が実際に罪を犯している場合に、ちょうどg:iの多数決で有罪になる確率 
  P g, i:被告が実際に罪を犯している場合に、少なくともg:iの多数決で有罪になる確率 
 司法省のデータからは、毎年の様々な種類の犯罪についての 
  C g, i:少なくともg:iの多数決で有罪になった被告の割合 
しか得られず、 
  c g,i:ちょうどg:iの多数決で有罪になった被告の割合 
も不明だった。しかしコンドルセはcrを結ぶ方程式を立てており、c 7,5がわかれば、現実の有罪判決比率からkを推定でき、rについての方程式を解くことができ、p 7,5が求められ、誤審の確率[1-p]もわかる。 
未知のc 7,5が核となるが、rが毎年同じだと仮定すると、c 7,5=C7,5-C 8,4であり、またC 8,4とC 7,5はデータから求められる。ここでrは本当に一定なのかという疑問が出てくるが、ポアソンはこれを高い(主観)確率で計算できるとし、有意な変動を数学的に測定し除外した。 
 その結果、単純多数決[7:5]の陪審の事例における誤審の確率[1-c 7,5]は、財産に対する犯罪では0.0382、人間に対する犯罪では0.16271/8より少し大きい)であった。ラプラスは7:5制度の誤審率を2/78:4制度だと1/8だと計算していたので、ラプラスに依拠して少なくとも有罪判決に8:4が必要だと主張していた人も、単純多数決で満足すべきということになる。 

 ポアソンの問題は各陪審員がそれぞれ等しい信頼性を持っているモデルだと理解されているが、オストログラツキーが批判したように、信頼性は当然まちまちである。ポアソンの大数の法則はまさにこの問題を解くために導出された。彼は、信頼性は陪審員によって異なっているが、そこに何らかの法則(確率分布)が存在する状況をモデルとしている。 
 ポアソンは、経験は事実を立証し、数学は同じ事実を証明するという態度を取っており、必然的なものと偶然的なものの間の区別で悩んだりはしなかった。彼は「大数の法則」を「誤ることのない経験的事実である」と考え、それは道徳的な事柄でも物理学でも立証された。 
 ポアソンの大数の法則はアカデミーの議論の的にはなったものの、人々は彼に対して批判的であり、関心も持続しなかった。ポアソンのような道徳科学は根絶され、陪審の問題は数学的衒学者のお遊びとなった。しかしそれにもかかわらず、[フランス全体を見れば]「大数の法則」は用語として定着し、経験的事実を超えた、事物がどのようにあらねばならないかを述べたものとみなされた。大数の法則は、集団現象の安定性の主張として、次世代以降アプリオリな真理となった。

陪審制における確率概念の発展:ラプラスによる演繹 ハッキング(1999)第11章

イアン・ハッキング『偶然を飼いならす--統計学と第二次科学革命』石原英樹・重田園江訳、木鐸社、1999年、125–37ページ。

11章 何対何を多数決とすべきか

 確率算術とフランス司法の間には次の三つの段階があった。 
  • 1785年:フランスに陪審制もそれに関する経験も統計データもない時代。コンドルセは、12人の陪審制の場合10:2以上で多数決の判断を下すのが最適だとした(同時に30人の陪審制の方が良いと主張した)。 
  • 1815年:フランスに陪審制が存在し、悪夢のような経験はあったが統計データはなかった。陪審制には最初コンドルセのルールが採用されたが、後に複雑な条件の単純多数決に変更された。ラプラスは、単純多数決およびこの条件を批判した。 
  • 1837年:いくつかの制度に基づいた陪審制が作られ、それについての経験が蓄積され、統計データが公刊され始めていた。ポアソンはこれに基づいて、陪審制は単純多数決で決定すべきだとした。 

 本章ではラプラスに、次章ではポアソンに焦点を当てる。これらは対になっていると同時に、第89章の自殺統計以前と以後についての記述とパラレルになっている。自殺や犯罪などの逸脱の割合が規則性を持つか否かに関する議論が後世に大きな影響を及ぼした一方、陪審制の数学的研究はほとんど影響しなかった。 

 確率概念が発展する上で、証言・議会・陪審制は重要な役割を担ってきた。証言に関する問題は、まずこの人は(どのくらい)信用できるのかという経験的なもの、次に証言相互の組み合わせ(①同じ事件に対する何人かの異なる証言の組み合わせ、②異種の証拠の組み合わせ、③証言の証言の評価)という論理的なものがある。初期には③の問題が多く浮上したが、これは理性を賞賛するためであった。 
 陪審制の判決を左右する主要な変数は、①選択肢の数、②規模[人数]、③何対何を多数決とすべきか、である。陪審制は1791年に憲法に組み込まれたが、この法律はコンドルセに多くを負っていた。彼は、有罪と無罪の誤審の見込みを共に確定する道徳的決定が与えられれば、最適な陪審制度を計算で導けると考えていた。彼は(30人の陪審の方が良いものの)12人の陪審においては、10:2が有罪判決に充分な比率だとした。 
 しかし陪審制はほぼ毎年改定され、1808年法典では、有罪判決は7:5の単純多数決とされたが、ここには議論の余地の大きい条件が付随していた。ラプラスは、この陪審制において誤差の可能性が1/3近くもあると計算し(「恐ろしい」数値である)、1815年頃から厳密な考察を開始した。 
 ラプラスは、各陪審員が確率で測定できるようなアプリオリの信頼性を持っていると考えた上で、①被告が実際に罪を犯している確率は1/2、②陪審のアプリオリな信頼性は1/21の間、③陪審のアプリオリな信頼性は1/21の間で一様に分布している、という三つの仮定を立てた。これに基づいた計算の結果、陪審が7:5で有罪判決を下しても、実際には罪を犯していない可能性が約2/7も存在する。しかしこのような議論に対し官僚たちは興味を持たなかった。 
 ラプラスの、全ての陪審員が等しい(未知の)信頼性を持っているという暗黙の仮定は、ほとんど数学的な便宜に過ぎなかった。M. V. オストログラツキーは、この仮定を取り払うと、212:20012:0は同じ信頼性を持つことになると指摘した。現在からするとオストログラツキーが間違っていたことは明白だが、ラプラスはこの点について多くのページを割いて議論している(読者にとってこれは自明ではないと考えている)。 
 ラプラスの演繹は経験による裏付けがなく、純粋な理屈だった一方、次章で述べるポアソンは経験的データを用いていた。ポアソンはラプラスが考えていたほど誤審率は大きくないと推測し、1835年に単純多数決を支持した。ポアソンの数学的に洗練された研究はただし、情報と統制の道具として意図されたものだった。

医療行為の評価における統計の利用 ハッキング(1999)第10章

イアン・ハッキング『偶然を飼いならす--統計学と第二次科学革命』石原英樹・重田園江訳、木鐸社、1999年、116–24ページ。

10章 信憑性がなく、詳細も分からず、統制を欠いた、価値のない事実

 数字が法律制定の指標になるという考えや統計法則についての考えは出てきていたが、統計的推論はほとんど存在していなかった。その典型は医学であり、数字が医療行為や治療方法に影響することは全くなかった。 
 医療行為の評価のために統計データが利用されたのはF. -J. -V. ブルセに関してが最初である。彼は「医学革命」の人物として知られており、疾病に関する新しい器質的「生理学」理論の信奉者だった。 彼によれば、あらゆる病気は局所的な原因、すなわち組織の「刺激状態irritation」(血流が多すぎる)か「衰弱asthénie」(血流が少なすぎる)によって起こる。しかし疾病の在所である器官やそれに関連する組織は、身体の奥にあって直接治療できない。そのためそこに一番近い表面に治療を施し、器官や組織から余分な血液を取り除くこと[瀉血]がなされた。蛭を用いた放血は181535年のフランスにおいて最も広く行われたが、これはブルセが広めたためである。 
 ブルセには敵が多く、保守派・折衷派の医学からも批判されていた。A. ミケルは、統計から見ればブルセの治療法は有効とは言えないと断言したが、ブルセの同盟者L. -C. ロシュはこれに反論した。「計量的方法」の創始者であるとされているP. C. A. ルイは、1828年から蛭による放血治療の統計的評価を行い、瀉血は全体として効果がないと結論した。しかし医学の領域に限れば、ブルセが破滅したのは大量の数字のためではなく、著名な友人がコレラで亡くなったためであった。 
 当時、統計はレトリックの道具ではあっても科学的なツールにはなっていなかった。ウィリアム・コールマンによれば「経験的な生理学や医学の領域で統計的手法が用いられるようになるのは、1900年以降に新しい技術が導入されてからのことである」。 しかし技術がなかったことに加えて、医学的事実の概念化をめぐる問題もあった。1835年にモンティヨン賞を受けた、ジャン・シヴィアルによる二つの結石手術の方法の比較によると、伝統的方法では5,433人のうち1,024[18.8%]が死亡したのに対し、新しい方法では307人のうち7[2.3%]しか死亡していなかった。シヴィアルがモンティヨン賞に応募した際、審査員たちはシヴィアルの業績を評価するとともに、ミケルやルイのような業績は全て〈信憑性がなく、詳細も分からず、統制を欠いた、価値のない事実〉でしかないと言い放った。しかし信憑性に満ちた統制された事実など存在しえただろうか。 
 審査員たちはシヴィアルの業績のようなものがもっと出てくるべきだとは思っていなかった。統計的推論においては「人の個性をはぎ取る」ことが必要なため、統計が応用可能なのは多くの階層classesが存在する場合に限られる。しかし医学においては、別々の個人についてのデータがいくら増えても、それは治療したい患者とは無関係である。[治療したい患者についての]確率計算を行うには[患者自身についての]事実があまりにも不足している[、というより不足せざるをえない] 
 人間に関わる事象において統計の利用が始まったのは、まさに人の個性を奪い去るために考案された制度、すなわち法廷においてである。

2016年11月30日水曜日

異兆としての奇形 Daston and Park(1998)第5章

Lorraine Daston and Katharine Park, 1998, Wonders and the Order of Nature, 11501750 (New York: Zone Books).

Chapter  5. Monsters: A Case Study 前半 (pp. 17390) 

Introduction (pp. 1737)   
(1) 15世紀末から16世紀のヨーロッパ人たちの多くは、彼らの時代が以前より質的にも量的にも驚異に満ちていたwondrousと考えていた(ブロードサイドの例:p. 174、図5.1 
(2) 中世のヨーロッパ人たちにとって自然の異兆は世界の辺境(アイルランド・アフリカ・アジアの植物・動物・鉱物)と結びついていたが、ルネサンス期には、それらは地中海とヨーロッパの中心に移行した。またそれに伴って異兆の特徴も変化している。異兆の典型例は、中世においてはブレミーやバジリスクなどの外国の種族exotic raceだったが、15世紀末から16世紀においては双頭の赤ん坊・人間と動物のハイブリッド・結合した双子だった。 
(3) 異兆の地理的な分布が変化したことは探検のみに由来するわけではない。そのような変化は探検が始まったばかりの1490年代半ばには既に指摘されていた。もし仮にそうだとしても、個々の異兆(怪物だけでなく地震や火山の噴火なども)が強調されていたことが説明できない。 
(4) 1章で論じたように、この種の個々の異兆は外国の種族とは異なった伝統と意味を持っている。外国の種族の伝統は、1516世紀にかけて、これまでの章で述べたような文化的文脈・重圧の中で発展・変化してきた。一方それは、1500年頃には、異兆の伝統の劇的な出現によって豊かになり、洗練された。 
(5) なぜ(外国の種だけでなく個々の異兆も含む)全ての異兆は、初期近代のヨーロッパ人の意識に入り込んだのだろうか? 本章では奇形の誕生という異兆に着目して、初期近代の異兆への没入の軌跡を追うこととする。奇形を神のしるしやlusus naturaeと見なす説明は17世紀末まで見られる一方で、自然化(異兆を自然の原因で説明すること)は中世においてもなされていたのである。 
(6) ここでは、解釈と感情の三つの複合物(恐怖・楽しさ・嫌悪)を見ていく。本章の最後の部分では、奇形いに対する宗教的な応答を自然主義的な解釈に先行しかつ劣ったものとする見方の起源を歴史的に論じる。異兆の自然化は17世紀末の知識人が全員一致で作り上げた幻想であり、異兆の自然化への動きよりむしろ、知識人の一致団結の方に説明が必要である。 
(7) これ以降、前述の三つの複合物を順に論じていく。最初のもの[恐怖]においては、怪物は神の憤怒のしるしであり恐怖を引き起こす。次のもの[楽しさ]においては、怪物は温和な自然と慈悲深い神の装飾の戯れとされる。最後のもの[嫌悪]においては、怪物は医学・哲学・神学で冷淡さや嫌悪の対象である。 
    
Horror: Monsters as Prodigies  (pp.  17790)   
(1) 15123月、フィレンツェの薬剤師ルカ・ランドゥッチ(Luca Lunducci, 14361516)は、自身の日記にラヴェンナで誕生している奇形について書いている(p. 1778、図5.2)。その18日後、ラヴェンナはローマ教皇軍・スペイン軍・フランス軍の連合軍に略奪されたが、彼は奇形がその前兆だったと考えていた。 
(2) ランドゥッチの日記は、1章で述べた結合した双子に対する反応を思い起こさせる。その双子も不幸の前兆と考えられていた。どちらの奇形に関する知らせもすぐに手紙や絵、口づてで広められた。 
(3) しかしランドゥッチの反応には、従来見られなかった重要な要素が含まれている。まず、ラヴェンナの奇形の知らせは以前より速く広く伝えられた。そして、ラヴェンナの奇形は独立した事例ではなく、多くの奇形の誕生や他の異兆の一つだった。 
(4) 奇形や異兆の文化は15世紀後半のドイツとイタリアで急増したが、それは特定の政治的・宗教的・軍事的な出来事と関連していた。どちらの国の場合も、帝国や教皇の政治評論家は、広く行き渡った異兆の文化を参考にし、それを活気づけるようなパンフレットやブロードサイドを、洪水のごとく生み出した。 
(5) どの社会においても、異兆や[それに基づいた]予言の文化は一つの階級や集団に限られたものではなく、博学な人文主義者や都市の商人・職人、また小作農や肉体労働者などの文字が読めない人々にも共有されていた。「予言のしるしのシステム」を構成する情報や想定は社会における多様な場所に広まっていた。 
(6) 印刷されたパンフレットやブロードサイドは、長さや精巧さにおいて様々だった。単に記述的なものもあれば(p. 178、図5.2.2)、道徳的な説明や寓意に満ちているものもあった(p. 174、図5.1)。しかし[奇形]誕生が引き起こす感情についての記述はほぼ全てのもので一致している。それは激しい恐怖だった。 
(7) この恐怖は単にカテゴリーが混同されていること(動物と人間、男性と女性など[のハイブリッドであること])に由来しているのではなく、むしろ道徳的な規範に背いたことに基づいている。ヨーロッパのキリスト教徒は、奇形を、人間の罪に対する神の罰だと捉えていた。 
(8) 奇形の誕生の注釈者の多くは、近づいている災厄を知らせることしかしなかったが、神の怒りを引き起こした罪を推測し、それを奇形の外形と結びつける者もいた。 
(9) 奇形の外形が重要であったことは、奇形の誕生についての記録の多くが図像を伴っている理由を説明する。それらの図像は、同時代に記憶のために用いられた図像(p. 178、図5.2.3)や、異教徒の偶像や悪魔(pp.1845、図5.3)を思い起こさせる。それによって奇形の誕生は罪や罰との結びつきを強めている。 
(10) 同時に、奇形や他の異兆の図像は、記録の権威やその感情的な影響を強めている。図像によって、直接目撃していない人でも[奇形の]誕生の恐怖を経験することができる。目撃者や場所・日時への言及は同様の効果を狙っていると考えられる(p. 186、図5.4)。 
(11) 16世紀の異兆についての専門書を著した人々は、異兆をより詳細に探究した。最も影響力があったものの一つは、アルザスの人文主義者かつプロテスタント学者のコンラート・ヴォルフハルト(Konrad Wolffhart, 15181561、ギリシャ名のリュコステネスLycosthenesとして知られている)のProdigiorum ac ostentorum chronicon1557)である。 
(12) リュコステネスにとって創造は統一であり、道徳の世界を反映して物質の世界が創られている。人間の罪が道徳的秩序の不和であるのと同様、異兆は物質的秩序の不和である。 
(13) リュコステネスは他の書き手と同様に、奇形や他の前兆の多くが自然の原因を持つことを否定しない。一方で彼はそのような原因を決定するのは困難であり、彼はそれを重視しないと述べている。 
(14) 16世紀の異兆の書き手たちの大半はこのような考え方に同意していたが、時が経つにつれて彼らの分析の方向には、それとは別の変化があった。奇形に読み込む罪の種類が変わったのである(ソドミー・貪欲・高慢・世俗的であること不敬・宗教的過ち・異端・陰謀・扇動)。この変化は、宗教改革期の社会の宗教的・政治的緊張を含んだ雰囲気を反映している。16世紀半ばの書き手たちは、奇形や他の異兆が頻発していることを終末論の枠組みで理解し、世界の終わりが差し迫っていると考えていた。 
(15) 初期近代のキリスト教徒による異兆の解釈は外部の出来事と密接に結びついていたため、17世紀末まで奇形や他の異兆の「自然化」「合理化」の明確なパターンを見つけるのは難しい。奇形を前兆と解釈し恐怖の対象とする見方は、ゆっくりと消えていくのではなく、特定の地域の状況に対応して再び目立ってきた。 
(16) ドイツは、イタリアと同様15世紀末に奇形に夢中になったが、その関心は17世紀まで続いた。この期間、奇形の文化的意味付けは状況とともに変化していった。1520年代はじめの、マルティン・ルターの賛同者と反対者の戦争の中で出されたパンフレットには、修道士と教皇の堕落への神の叱責を表す二つの奇形が描かれている(p. 188、図5.5)。シュマルカルデン戦争や三十年戦争の間にも多くの異兆が記録された。一方フランスとイングランドにおいて異兆は、フランスの宗教戦争やエリザベス女王の即位、イギリス大内乱の文脈で、156070年代に栄えた。 
(17) 6巻のHistoires prodigeuses[『異兆誌』]は、奇形に関する著述に対する政治的・宗教的状況の影響を網羅的に扱っている。最初の2巻(1560, 1567)は奇形や他の異兆を神の罰と結びつけているが(p. 184、図5.3.1)、それほど不吉でない他の解釈も提示している。 
(18) 同書の35巻は157582年に出されたが、この時期はフランスの宗教戦争の絶頂であった。それによれば全ての奇形は異兆であり、キリスト教徒に悔い改めるよう忠告するために神が遣わしたものである。一方6巻は、戦争が一時中断されている1594年に出されており、それまでの巻が読者を退屈させたのではないかと述べ、異兆の描写で読者を楽しませることを約束している。つまりこの巻は、異兆が恐怖だけでなく楽しさも引き起こすことを示している。