2015年11月27日金曜日

発見的医学:方法学派とメタレプシス Webster(2015) 【Isis Focus:限定合理性と科学史】

Colin Webster, 2015, “Heuristic Medicine: The Methodists and Metalepsis,” Isis 106(3): 657–668.

科学的実践としての限定合理性(pp.657658
本稿では、古代ローマで栄えた医学の一派である方法学派Methodistを取り上げ、自覚的に限定合理性を採用した科学はどのように見えるのか、そのような科学の営みにはどのような認識論的問題が現れるのかを考察する。方法学派の特徴は、病気の原因の説明を拒否し、代わりに「明白な共通の姿manifest commonalities/phainomenai koinotêtes」に基づき医学において発見的方法heuristicsを用いた点である。
まず、方法学派が明白な共通の姿を用いてどのように実践的医学を打ち立てたのかを描写する。次に、方法学派の非因果的科学が抱えた困難を3つ挙げる。最後に、発見的方法がメタレプシスmetalepsisと呼びうる存在論的ずれを引き起こすことを説明する。

方法学派と発見的方法(pp.658–661
方法学派は、ラオディケアのテミソンによって紀元前1世紀頃創設され、トラレスのテサロスによって完成されたギリシャ医学の一派であり、300年以上にわたっておそらくローマで最も支配的であった。彼らは、患者の過去の症状との類似性に基づいて治療を行う経験学派Empiricistを当て推量にすぎないと批判し、病気の原因の説明を試みる教条学派Dogmatistを、人間の知識の限界を超越した実体(体液や原子など)を前提としていると論難した。彼らにとってそのような「隠された原因」の推測は医学の範囲外で、役に立たないものであった。彼らは、全ての病気は3つの「明白な共通の姿」(緊張、弛緩、混合)の表現形式であり、未知の体内の状態を仮定することなく、明白な共通の姿を直接理解できると主張した。
経験学派と教条学派はどちらも、体の特徴や病気にかかる前の環境が潜在的に病気に関係していると考え、それらを知ることには終わりがなかった一方、方法学派は人間の知識の限界に応じて明白な共通の姿を設け、因果的説明を新たなメカニズムに置き換えた。さらに彼らは診断だけでなく治療の決定も単純化した。それぞれの共通性はその治療を指示するので、治療の選択は単なる当て推量ではなく理性による演繹的行為であった。このように、発見的方法に似た明白な共通の姿は、安定した知識をもたらし、医学を単なる技術ではなく科学に分類するのを正当化した。

実践における発見的方法(pp.661–662
方法学派は、実用的な方法も手伝って、直観的で詳細な医学システムを作り上げた。彼らは病気を慢性と急性の疾患に分け、病気の進行を4つのプロセス(初期、増大、発作、減退)に区切り、それぞれの段階に合わせて治療を考え、また新たな薬理学的治療も考案した。明白な共通性は3つのみだったが、方法学派はそれ以上の数の治療法をもっていた。
さらに明白な共通性を用いることで、より経済的利益を上げやすくなり、[医師の]訓練期間も短縮された。また、ギリシャ語話者である方法学派がローマの患者を診る際の言語的・文化的障害も少なかった。

存在論的危機(pp.662–665
非因果的医学はまず、原因が知りえないとしたら病気とは一体何か、どう定義し同定するのかという問いに直面した。これに対して方法学派は、病気を、体によって経験される[病気の]結果と極めて近いものと捉え、基本的なカテゴリーを「病気disease/nosos」から「疾患affection/pathos」に変化させた。しかし、明白な共通の姿は3種類しかないのに、いかにして3つ以上の病気が存在しうるのかという問いが残った。症状symptomは病気と対応しているわけではないためその同定には使えない。よって方法学派は、一つの病気に対して必然的かつ特有の繋がりをもつ「徴候群sign-sets」を導入した。だがここでも、そのような徴候群は明白な共通の姿が元々担うはずだった役割を奪ってしまうという問題が生じた。さらに、徴候群はそれ自体で理解できるものだと考えられているが、誰もが訓練なしに明白な共通の姿を理解できるならばディシプリンとしての方法学派は必要なくなってしまう。テサロスは、共通の姿は直接目に見えないが、指示的特徴indicative featuresを示すと考えた。だがもし指示的特徴によって明白な共通性が推測できるならば、共通の姿は隠された原因に接近することになる。
カテゴリーの区別が抱えたこれらの困難は、原因から結果への、また結果から原因へのずれを生じさせながら、方法学派の医師たちの間に様々な意見の相違をもたらした。原因論を拒否することによって、方法学派は病気のカテゴリーを不安定化させ、知りえない原因と階層化された結果の間に新たな理論的機構を組み立てる必要にさらされてしまった。

メタレプシス(pp.665–667
方法学派の、発見的方法に似たアプローチが抱えた困難は、メタレプシスという言葉で要約できる。ここでいうメタレプシスとは、共通の姿、疾患、症状、徴候などが混同されて言葉が置き換わること、つまり存在論的ずれが生じていることである。
方法学派の発見的方法は、メタレプシスで要約できる理論的問題だけでなく、患者が原因と結果という枠組みで考える世界で機能する必要があったという実用上の問題も抱えていた。実際、明白な共通の姿を疾患などの原因と想定するのは容易であり、偽ガレノスは明白な共通の姿を偽装された原因だと論じた。方法学派の中には原因論を受け入れていた者や、目に見える結果を用いて隠された共通の姿を推測する者さえいた。彼らは因果的議論に取って代わるはずだった発見的方法を、原因論に類するものとして定立させた。

結論(pp.667–668
方法学派の事例は限界の限界を示している。彼らは人間の知識の限界を受け入れ、医学の領域で確実性を模索するための新たな理論的道具を据えたが、発見的医学が抱えた困難によって彼らの限定合理性は不完全なものになった。彼らの認識論は複雑で微妙な差異を含んでいたが、多くのメタレプシスの例を示した。発見的方法は、実践的問題を解決し世界の正確なモデルを作れるが、潜在的に理論的複雑性を導入し、原因と結果の間に新たな存在を創り出してしまう。

2015年11月5日木曜日

どんな理論的対象が実在的なのか ハッキング(1983=2015)第2章

イアン・ハッキング『表現と介入』渡辺博訳、筑摩書房、2015年、7995ページ。

 読書会で担当した部分のまとめです。

2章 基礎単位となることと原因となること

イントロダクション
「実在的[本物]」という言葉は、自然科学においてどんな用法をもっているだろうか。この言葉で満ちている実験にかんする談話を二つ挙げよう。一つは細胞生物学において、標本にした細胞の顕微鏡写真に規則的に見られる繊維の網は本物ではなく、標本に生じた人為構造であると述べるものである。もう一つは物理学における自由クォークが(批判的な人々から見れば)本物ではなく、これまで知られていなかった新しい電磁力であると述べるものである。
では「実在的[本物]」とは何を意味するのだろうか。JL・オースティンは最も優れた簡潔な考察を行っている。彼の『知覚の言語』の第7章で述べられている方法論上の規則は、「われわれは「本物のクリームではない」のようなさり気ないおなじみの言い回しをことさら蔑むことさえないものとして片づけてしまってはならない」というものと、「単一の、明確に述べることのできる、常に同一な意味」を捜してはならないというものである。即ち彼は、言葉の使用のなかにある規則性を体系的に研究することを要求する一方、同意語を捜すことのないよう警告する。また、彼の「実在的[本物]」という言葉にかんして4つの観察を行っているが、そのうちの2つは特に重要である。1つ目は、「実在的[本物]」という言葉は名詞欲求型である、即ち「それは本物だ」という言葉を適切に理解するには名詞が要求されるというものである。2つ目は、「実在的[本物]」という言葉は否定主導語である、即ち「本物のS」の意味は「本物のSではない」という否定形に由来するというものである。「本物の」という言葉は文脈によって何を否定するかが変わるが、それは「本物の」という言葉が曖昧なためではなく、「本物の」という言葉の意味が、修飾している名詞に依存するためである。「本物の」という言葉が様々な仕方で用いられていることのみを理由に、様々な種類に実在があるに違いない、と考えられがちだが、「本物の」という言葉自体は、名詞が変わっても多義的な意味をもつわけではないのである。
以上を踏まえて、特に専門化した議論においては「実在の[本物の]」という言葉でどんな対照が考えられているのかを明らかにする必要がある。では、理論的対象が本物の対象である/ないとすれば、そのときどんな対照が考えられているのだろうか。

唯物論
JJC・スマートは『哲学と科学的実在論』(1963)で前述の問いに応じている。彼によると反実在論者は、電子を恒星、惑星、山、家、テーブル、砂粒、微細結晶、細菌[などの実在的と考えられる対象]とは別物だと主張しているが、それらは突き詰めれば電子からできているため、したがって反実在論者は誤っている。また「実在的」という言葉はある対照を指定しなければならず、またすべての理論的対象が実在的であるわけではない。例えば彼によれば、磁力線は実在的ではない。一方、力線という概念を最初に考案したファラデーは、晩年、力線が実在的だと考えていた。このことは、実在にかんする考えには、[スマートが考えていたような]基礎単位building blockという水準を超えているものもあるという事例を示している。
スマートは、物理的なものは電子などからできているという考えに基づいている点で唯物論者であるといえる。一方、バークリーは反唯物論者であり、またファラデーは唯物論者ではない。
ベルナール・デスパーニアの『物理的実在』には、唯物論者にならずに科学的実在論者でいられるという論証がある。即ち「実在的」という語においてスマートとは別の対照を指定できると述べている。またスマートの区別は、社会科学や心理学の理論的対象が実在的であるかを論じるのには役立たない。チョムスキーは『ことばと認識』(1980)で認知心理学における実在論を主張しているが、彼は脳が組織化された物質でできていることだけでなく、それが思考という現象の「原因」となることも考えている。この「原因」という言葉は、科学的実在論の別の解釈を促す。

因果主義
類比的に、実在的なものの因果的な力を強調する者を因果主義者と呼ぶことにする。ここで2つの事例を挙げる。アメリカ産科婦人科学会は、生理用タンポン使用と中毒性ショックの間にある連関があることは認めたが、原因と結果の明確な関係があるとは認めなかった。また、核弾頭を装備したミサイルが化学的爆発を起こした後、近隣の村民が体調不良に悩まされたが、アメリカ空軍は原因と結果の関係を否定した。これらは、われわれは相関関係を完全に否定することを相関関係の断定から区別すること、また相関関係を原因から区別することを示している。因果主義者はこの部分を特に重視する。
ナンシー・カートライトは因果主義者であるといえる。彼女によれば、あるタイプの出来事がある結果を生み出すという理解の明白な証拠は、ある種類の出来事を別の種類の出来事を生み出すのに用いることができることである。さらに、何かを実在的だと呼び得るのは、それが基礎単位だからではなく、因果的な力をもつからである。例えば電子や陽電子は、ニオブの小滴に吹きつければ電荷を変化させることができるため実在的といえる。この見方に従うと、ファラデーは非唯物論者かつ因果主義者といえる。

対象であって理論ではない
ここで、対象にかんする実在論と理論にかんする実在論を区別する。今まで登場した唯物論者も因果主義者も、対象について述べていた。
前述のカートライトは、理論にかんしては反実在論者であり、対象にかんしては実在論者であるといえる。彼女曰く、諸々のモデルや理論は、現象を理解し実験場の技術を組み立てるのに役立つ知性の道具であり、諸々の過程に介入したり新しい現象を作り出したりできる。しかし厳密に真なる法則は存在せず、諸々の結果を生み出すのは電子など[の実在的なもの]である。これは、ヒューム以来の経験論の伝統に対する驚くべき反転である。そのような伝統においては、実在的なのは規則性だけだからである。
このような反転の可能性はヒラリー・パトナムに多くを負っている。彼によれば、理論語が特定の理論から意味を得るという観念を拒否し、現象によって事物の観念を定式化することは可能である。また、理論的対象を用いてはじめて事を行うことができるようになる。そして、理論的対象にかんする様々な説明はどれも、自然に介入する際に実際に用いることができる因果的な力を記述する。

物理学を超えて
因果主義者は[唯物論者と異なり]、超自我や後期資本主義[などの、社会科学や心理学における理論的対象]が実在的かどうかを考察できるが、それらについての因果的理解はもち合わせていない。また因果主義は、社会科学にとって未知のものではない。マックス・ウェーバーは理念型の学説を抱いており、「理念的」という言葉を「実在的」と対立するものとして用いている。ここでいう理念とは、人間精神の創案であり、思考の道具である。ウェーバーがマルクスについて考察している記述から、次のような教訓が得られる。①スマートのような唯物論者は、社会科学上の対象の実在性に直接的な意味を与えることができない。②因果主義者にはそれができる。③因果主義は実際には理論的社会科学のどんな対象の実在性も拒否するかもしれない。結果的に唯物論者と因果主義者は同様に懐疑的かもしれない。④理念型にかんするウェーバーの学説は社会科学上の法則に対して、否定的な形で因果主義的態度をとる。例えば、マルクスの理念型は因果的な力をもたないため実在的ではないと主張する。⑤因果主義者は、ある物理科学は因果的性質がよく知られている対象を見出しているが、ある社会科学は見出していないという理由で、後者を前者から区別するかもしれない。
少なくともある科学的実在論では「実在的」という言葉をオースティンとほぼ同様に使用できる。前述のように、スマートにとって対象とは基礎単位となるためのものであり、カートライトにとって対象とは原因となるためのものである。両者はいくつかの対象にかんして科学的実在論者だが、「実在的」という言葉を異なった対照をもたらすものとして用いているため、両者の「実在論」の内容は異なる。次に、同じことが反実在論でも起こっていることを見ていく。