2016年11月7日月曜日

西ヨーロッパ繁栄の背景 クロスビー(2003)第11章

アルフレッド・W. クロスビー『数量化革命--ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』小沢千重子訳、紀伊國屋書店、2003年、287–302ページ。

第3部 エピローグ

第11章 「新しいモデル」

 西ヨーロッパの人々は、西暦1300年前後の数十年の間から、現実世界を視覚的・数量的に認知する新たな枠組みを発展させてきた。
 視覚を重視することがもたらした恩恵の最たるものは、目に見える事物・現象と、それを均一な単位量を用いて計測した結果が一致しているという認識であった。新たな枠組みにおけるアプローチでは、まず考察対象を、その本質を明確に示す最小の要素まで還元し、それを紙に書いて見えるようにするか頭の中で思い描く。そしてそれを均一な単位量に分割し、その数を数える。そうすることで対象を計測したことになる、つまり数量的に表現できるようになる。このようにして初めて、厳密な考察や実験が可能になる。
 当時の西ヨーロッパは、機械類の発明や利用の分野では世界をリードしていたものの、その差は決して大きくなかった上に、それ以外のいくつかの分野では未だに遅れを取っていた。しかしながら、現実世界を認知する枠組みを作り、それに基づいて世界の合理的な解釈や操作を可能にした点で、西ヨーロッパは他を大きく引き離していた。現代文化の合理的特性は視覚化および数量化と関連がある、あるいはその傾向があると言える。

 印刷術は、視覚化の威信を高め、数量化の普及を加速させた。西ヨーロッパでは1400年代〜1500年代にかけて、科学や工業技術分野の挿絵の芸術性が最初のピークを迎えたが、印刷術の発明によって、技術に関する正確な挿絵の有用性・重要性が急激に高まった(複雑・精緻な図を手で模写することは難しいが、印刷機を使えば完璧なコピーをいくらでも作れた)。印刷された技術に関する挿絵は、16世紀後半〜17世紀の科学革命でも重要な役割を果たした。科学革命においては極めて多くの事柄が視覚的に表現されているためである。

 ルネサンス遠近法は、現実世界を正確に描写する手法だけでなく、一定のルールのもとで現実世界を変形させる方法を示した。その一つであるメルカトル図法は、視覚化と数量化を巧みに結合させた16世紀最大の傑作である。
 西ヨーロッパの船乗りは(特に長距離の)航海のために、丸い地球を平面の海図に書き、実際には曲線を描く航程線を海図上に直定規で引く必要に迫られていた。フラマン人地図製作者ゲラルドゥス・メルカトルによって1569年に印刷された世界地図は、(実際には両極で収束する曲線である)経線を緯線と同様に平行線として描いたため、極地方の面積が極端に大きくなった。また極に近づくにつれて経線間の距離を人為的に増したのと同じ比率で緯線間の距離も長くしたため、実像はさらに大きく歪められた。しかしこの地図の上には航程線を真っ直ぐに引くことができた。
 メルカトルは船乗りの便宜のために空間の広がりを極度に歪めており、視覚化の実践における離れ業と言える。彼はこの投影図法の数学的理論を解説した著述を残しておらず、その理論はイギリス人のエドワード・ライトによって1599年に示された。

 16世紀の西ヨーロッパ社会は比類ない存在だったが、その裏には宗教戦争や無差別の破壊行為など社会の不安定さが存在していた。彼らは生き延び発展するに至ったが、彼らが旧来のモデルの欠陥を補うために生み出した「新しいモデル」は、現実世界を検証する新たなアプローチと現実世界を認知する新たな枠組みを提供した。やがて「新しいモデル」は並外れて確実であることが判明し、人類に強大な力と宇宙の本質を理解できるという信念を与えた。

2016年11月3日木曜日

複式簿記と商取引の可視化 クロスビー(2003)第10章

アルフレッド・W. クロスビー『数量化革命--ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』小沢千重子訳、紀伊國屋書店、2003年、253–283ページ。

第2部 視覚化--革命の十分条件

第10章 簿記

 商人は西ヨーロッパ社会を資本主義に誘導し、ビジネスライクに行動する意義を人々に教えた。ビジネスライクとは注意深さと綿密さ、そして数字を扱うことである。商人にとっての数字とは金に他ならない。商人が携わる取引は様々な要素が複雑に入り組んでいたため、彼らは記憶に頼ってはならず、自らの数量化された営みを書き記して目に見える形に変えていった。

 中世後期とルネサンス期の西ヨーロッパの商人は、商取引の嵐の中で暮らしていた。彼らは時々刻々と変化する商売の現状を把握するために、適切な簿記法を発明する必要に駆られていた。
 中世初期には、受取勘定も支払勘定もなく、融資も滅多になされず、会計係もいなかった。また経済活動の主体は一人あるいは複数の個人で、会社に類する組織は存在しなかった。そして商人は行商人の域を出ておらず、帳簿も、決算するという発想もなかった。
 10世紀以降は商人が扱う商品の量・品目・金額が増加し、また事業が共同で営まれるようになった。また会計処理が乱雑だと、返済が遅れて利子が累積する恐れがあった。さらに代理人を介した商取引において、主人への報告内容や形式が明確でなかった上に、会計処理が不正確だった場合誤解が生じた。こうして簡潔かつ正確に記録する必要性が高まっていった。

 西暦1300年頃、イタリアの会計係の一部が、今日複式簿記と称される簿記法を用い始めた。14世紀初頭に資産と負債を別の欄に分けて帳簿がつけられ始め、その後専門用語や略語が作り出され、形式が整えられていった。
 複式簿記の直接的な効用は、商取引を数字で正確に記録し、わかりやすく配列することで、激しく変動する経済情勢の諸要素を理解しコントロールできるようになったことである。しかし14〜15世紀のフィレンツェの商人には、簿記に正確さを求めたり、日を決めて定期的に決算するという習慣はまだなかった。

 複式簿記の父と称されるルカ・パチョーリは、初めて印刷物の形で複式簿記を解説した人物である。彼の主著『算術・幾何学・比および比例全書』は、数学の様々な側面を網羅した百科全書であると同時に、商業算術の全てをわかりやすく解説し、貨幣と両替についても一節を割いているものである。この著作は1494年に初版が、1522年に完全な形での再版が刊行され、代数をはじめとした数学の様々な分野の目覚しい発展の礎となった。また簿記法を論じた一節である『計算および記録群論』は独立して各国語に翻訳された。
 パチョーリは、商人がきちんと帳簿をつけることは、度量衡・通過・商習慣が異なる様々な都市の相手と取引するために、そして彼らとよいパートナーシップを保つために重要であると論じている。帳簿を正確につけるためには、まずいつ帳簿をつけ始めるか(財産目録を作るか)を決め、自宅と店舗の資産、倉庫の資産、不動産と預金、信用取引の状況を順に書き出す。その上ではじめて日々の帳簿付けに取りかかれる。
 日々の取引について商人は覚書帳・仕訳帳・元帳の三種類の帳簿をつける必要がある(帳簿の全てのページには、破かれないように番号を振る)。覚書帳には全ての取引をできるだけ詳細に記録する。その内容を、仕訳帳に日付を付して転記するが、その際に瑣末な情報を省略して整理する。これをもとに元帳を作成するが、このとき複式簿記の技法を用いて事項を全て二重に記録する。項目ごとに仕訳帳の該当するページを記載し、資産を一方の欄に、負債を別の欄に転記するのである。元帳を決算するには、紙の左側の欄に借方勘定を、右側に貸方勘定を全て記入し、それぞれの欄を合計し、左右を比較する。総額が一致すれば会計処理が正確になされたと見なせるが、一致しなければ計算違いか記入漏れがあるか、不正な処理がなされたことになり、原因を入念に調べなければならない。

 複式簿記を用いると、大量のデータをとりあえず保存してから配列・分析することができる。商業・製造業・行政に関わったルネサンス期のヨーロッパ人や彼らの後継者たちが、会社や行政制度を作って運営する上で、複式簿記は重要な役割を果たした。今日でもその枠組みはパチョーリの時代から変わっていないのである。
 このようなヴェネツィア式簿記法は、全てをあれかこれかに峻別する二者択一的な思考様式を助長した。中世においては正確さは要求されず、事物を数量的に把握する必要性はほとんどなかったが、簿記法が日々実践されることで我々の思考様式に強大かつ広範な影響が及ぼされた結果、帳簿に適合するような形で世界が解釈されるようになった。

絵画における遠近法と空間の均質化 クロスビー(2003)第9章

アルフレッド・W. クロスビー『数量化革命--ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』小沢千重子訳、紀伊國屋書店、2003年、215–251ページ。

第2部 視覚化--革命の十分条件

第9章 絵画

 人間が絵を描く目的は知的・感情的欲求を満たすため、経済的利益を得るため、政治的・社会的・宗教的意図を表現するためと様々だが、それが変化するにつれて、空間そのものに対する見方や三次元の情景をに事件の画面上に表現する手法も変化した。

 中世の絵画では、一枚の絵に明らかに時点の異なる複数の「現在」が描かれることがあった。「現在」は「ある程度の幅を持った鞍のような」概念だったのである。また一度に二つ以上の視点から対象が描かれたり、人物の身分や格といった重要度が人物の大きさで表現されたりした。そして何もない空間が無視されるなど、空間がそれが内包するものと同一視されていた。

 西ヨーロッパの人々は、14世紀初頭にかけて次第に光学と幾何学を重視するようになった。当時遠近法は光を考察する幾何学の一部であった。また正確に絵を描くことは幾何学の範疇であると同時に、神の意思を伝える完璧な手段だった。
 遠近法の発展に貢献した画家としてジョット・ディ・ボンドーネが挙げられる。ジョットの絵画はほとんどの場合単一の視点から見たある瞬間の情景を捉えており、特に立体的な表現で同時代人を魅了した。しかし彼の絵では二つの画像の前後方向の距離が必ずしもはっきりせず、また事物が複数の視点から描かれているものもある。実際彼の才能は経験によって培われたものであり、科学的な裏付けを欠いていた。14世紀末まで遠近法はさほど発展しなかったが、その理由は、幾何学的に正確な表現には、経験だけでなく理論が必要だったためである。

 15世紀になると、西ヨーロッパ人は北イタリアの学者たちを介してプラトンの哲学に触れた。北イタリアの学問と芸術の中心は(アリストテレスを信奉する哲学者が多い大学ではなく)宮廷であり、そこでプラトン主義が優勢となった。マルシリオ・フィチーノは新プラトン主義運動の中心となったが、彼らは、数は「人間を実在に導く力がある」、「幾何学は永遠の実在を知るための学問である」というプラトンの信念を復活させる環境を整えた。
 西暦1400年前後には、プトレマイオスの『地理学』の写本がフィレンツェに到来した。この書物では、格子を用いて曲面を平面上に幾何学的に正しく描くルールが提示されており、画家たちはこれを絵画に応用した。絵画術を数量的ルールに基づく技法とした功労者として、フィリッポ・ブルネレスキが挙げられる。彼が設計し建造を指揮したドームは彼が遠近法を理解するのに必要な幾何学の知識を持っていたことを示している。しかし彼はジョットと同様、自分の技法を説明する文章を残していない。

 ルネサンス遠近法の発明者としてレオン・バッティスタ・アルベルティを挙げる者もいる。彼は『絵画論』で適切な遠近法を用いて絵を描く手法を説明している。画家と対象の間に薄いベール(その上に格子状に太い糸を並べられる)を置き、画家は(知っている事実ではなく)目に見えた通りの情景を、ベールの糸に対応する格子上の線を引いた平面に書き写すのである。しかし実際に目に見えた通りに描くのは難しく、画家たちは幾何学的な手法も習得する必要があった。
 アルベルティはこれについても説明しており、正統作図法と呼ばれている。まず画面前景に人物像を描き(頭部が画家の目の高さ=地平線の高さに来るように)、その高さを三等分した長さをその絵画の数量的な構成単位とする。そして画面の底辺をこの構成単位で分割し、地平線上に「中心点」を決める。これは今日でいう消失点に当たる。そして中心点から底辺の分割点にそれぞれ直線を引き、それを垂直に横切る水平線を何本か引く。こうして画面上に格子状の線が現れるのである。アルベルティ以降数世代の西ヨーロッパ絵画の多くに、このような格子模様が下書き・下彫りされている。このように空間を幾何学的に捉える考え方は、ルネサンス期の前衛画家にとって強迫観念となっていたような印象さえ受ける。
 こうして、空間に関わるあらゆる特性は、時間・場所を超越して均質・一様であると見なされるようになっていった。

 西欧ルネサンスの基準を満たす写実的な絵、つまり幾何学的に正確な絵を描くために、正統作図法の実践者たちは恣意的な選択を強いられた。例えば片方の目で見た一瞬の情景を描いたり、水平方向に伸びる平行線が収縮するように見えることを無視したりした。
 クワトロチェントが終わると絵画術は二つの支流に分かれた。一つはより芸術的な方向に向かい、16世紀のマニエリスム画派の歪曲された遠近法に変容した一方、もう一つはより数学的な方向に向かい、射影幾何学に変容した。このことからルネサンスの絵画術は恣意的な要素を持ちつつも、概ね光学的真理あるいは人々の現実世界の見方と一致していたと言える。

 15世紀の絵画術は数学的傾向を強め、数学と融合する場合もあった。優れた画家にして数学者だったピエロ・デラ・フランチェスカの経歴はこのことを示している。彼の傑作「キリストの笞打ち」では、プラトン流に解釈されたキリスト教のシンボルが、数量的・幾何学的に表現されている。この絵の主要な画題と画家の目との距離を絵の構成単位で表すと、すべてが神秘的なπの整数倍になっているのである。この絵は遠近法がルネサンスを先導したという主張を明確に裏付けている。

2016年10月28日金曜日

定量音楽と記譜法 クロスビー(2003)第8章

アルフレッド・W. クロスビー『数量化革命--ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』小沢千重子訳、紀伊國屋書店、2003年、185–214ページ。

第2部 視覚化--革命の十分条件

第8章 音楽

 音楽は時間とともに進行する物理的に計測可能な現象である。中世およびルネサンス期のヨーロッパ人は、音楽を世界の基本的な枠組みから流出したもの、あるいはその枠組みの一部と考えていた。彼らの時間認識を考察するにあたっては音楽を取り上げるのが最も適切である。
 
 10世紀の末頃までのヨーロッパでは、音楽を適切に書き記す方法がなく、典礼音楽(キリスト教会における公的礼拝の音楽)は記憶を頼りに演奏されていたため、歌詞や演奏方法が多様化していた。一方で音楽を一定の形式に統一しようとする傾向も存在し、これがグレゴリオ聖歌の収集・編纂と記譜法の考案につながった。
 ローマ・カトリック教会の典礼音楽であるグレゴリオ聖歌は、一つの旋律からなる単声音楽(モノフォニー)であり、音の高低や強弱にあまり変化がない。グレゴリオ聖歌は、音の長短を厳格に規定した定量音楽とはかけ離れており、ある音の長さは音が割り当てられた音節を歌うのに必要な時間の長さであった。つまり時間が持続する長さが時間の担う内容によって規定されていたのである。
 中世初期の西ヨーロッパのキリスト教では、物事を正しく行う方法は一つだけであり、聖歌にもそれが当てはまったため、音楽を書き留める手段が必要だった。そうして修道士たちが発明したのがネウマ記譜法である。当初これは音高の相対的関係を表す記号(ネウマ)の体系に過ぎず、数量的ルールに基づいて構成されたものではなかった。しかししばらくするとネウマの位置をわかりやすくするために横線が引かれるようになり、それが増えてやがて譜表となった。線の上や線と線の間にネウマを書き、他の記号を併用することで、あらゆる音の相対的音高を合理的に書き表せるようになった。

 また9世紀になると、かつて神聖不可侵とされたグレゴリオ聖歌に新たな歌詞や旋律を挿入することが認められるようになり、複数の旋律(声部)で構成される多声音楽(ポリフォニー)が誕生した。西ヨーロッパの音楽が単調なグレゴリオ聖歌から複雑なポリフォニーに発展するにつれて、演奏される場所も修道院や郊外から大聖堂や都市に移った。そして13世紀には、教会で演奏されるポリフォニーにも大衆音楽のメロディーやリズムの影響が現れ始めた。
 ポリフォニーの形式で歌うためには、歌い手たちが曲のどの部分を歌っているのか、どの程度の速さで歌えばよいのかがわかる必要がある。そのためリズムという時間を計量する尺度が現れた。そのような数量化と演奏という実践が直接結びついていた音楽は、物事を数量的に把握し現実世界を数学的に考察するという姿勢を一般に広める上で非常に大きな影響力を持った。

 13世紀初頭から14世紀にかけて音楽に影響を及ぼした要因は、一つはポリフォニーであり、もう一つはアリストテレスの全著作の翻訳が西ヨーロッパにもたらされたことである。音楽理論家たちは(第3章で言及した)スコラ学者特有の分類の技法と論法で、西洋音楽の正統的形式を築いた。
 例えばヨハネス・デ・ガルランディアは音楽をジャンルに分類し、それをさらに類に分類することで個々の曲を位置付けた。また彼はリズムの問題に最初に取り組んだ理論家で、音の休止の相対的長さを表す休符を発明した(なおこのとき、存在しないものを表すゼロという数字が既に普及していた)。またケルンのフランコは、あらゆる音符と休符の長さを系統的に表す記譜法を提唱・標準化した。こうして、従来のように時間の内容がその長さを規定するのではなく、時間がその内容を計量するようになった。
 音楽家たちは定量音楽のルールを駆使して、抽象的な時間を流れる音、つまり羊皮紙や紙に記される音を、細かく分割したり、逆行させたり、上下を入れ替えたりするようになった。1320年頃に著された『アルス・ノヴァ』という論文は、同名の新たな様式の音楽を論じている。アルス・ノヴァでは「不完全な」拍子だった二拍子を「完全な」拍子である三拍子と対等なものとして受け入れ、またそれまで認められていたものよりさらに短い長さを表す音符を新たに考案された。また、メロディのパターンとリズムのパターンの持続時間が変わり、それが繰り返されて最終的に同調するという、定型反復リズム(アイソリズム)という形式も生み出された。これは「聴くよりも見た方がわかりやすい」技法だった。 

 16世紀後半から17世紀にかけての科学革命の時代には、音楽家は社会の中心近くに位置していたが、中世の音楽家の場合もそうだと言える。『アルス・ノヴァ』の著者とされているフィリップ・ド・ヴィトリは、指導的な作曲家・理論家でありながら、パリ大学の芸術教授・数学者・古代史と倫理哲学の学徒であり、王の書記官・顧問官・外交使節団の長・司教を務めた。彼の新しい時間概念は社会の主流をなしていた。

 ある社会が現実世界をどのように認識していたかを分析するには、その社会の時間認識を調べるのが最も優れた方法である。アルス・ノヴァなどの音楽の変化は、西ヨーロッパの文化の大きな変容を示している。音楽は西ヨーロッパ社会の中核をなす心性(マンタリテ)に対して重要な意味を持っているのである。

2016年10月27日木曜日

数量化の十分条件としての視覚化:読み書き方法の変化 クロスビー(2003)第7章

アルフレッド・W. クロスビー『数量化革命--ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』小沢千重子訳、紀伊國屋書店、2003年、173–184ページ。

第2部 視覚化--革命の十分条件

第7章 視覚化するということ

 これまでの章では、中世後期からルネサンス期にかけて数量的アプローチの急激な進展をもたらした必要条件を検討してきた。第3章で述べたように以下の第2部ではその十分条件を考察するが、それはすなわち視覚化である。以下の三つの章で人間の営為のそれぞれの領域での変化を考察するが、本章では読み書き能力における変化を見ていく。

 読み書き能力はあきらかに視覚に結びついており、かつ重要性が普遍的に認められているので、変化の様子を示す良い例である。13世紀以前、権威ある言葉は主に耳によって受け取られていたが、13世紀には、鉄筆・羽ペン・インクを用いて情報を伝達・記録する習慣が急速に普及した。
 古典古代から中世初期においては、書くことも読むことも骨の折れる作業だった。文字は一つずつ離して書かれていたし、単語・文章・段落の間には区切りがなく、句読点もないも同然だった。そしてその頃、読み書きは通常声を出すことを伴っていた。時間はかかるが、目で文字を追うよりも単語や文章の始めや終わりがわかりやすかったためである。
 西ヨーロッパの知識人たちは、古代ローマの読み書きのルールを変更・改良した。文化の中心であるローマの人々はラテン語に通じていたため、単語を区切って書いたりする必要性を感じていなかっただろうが、地方の聖職者はラテン語に習熟しておらず、わかりやすいルールが必要だった。また西ヨーロッパの知識人たちは膨大な書類や書物を前に、より速く読み書きできる方法を求めていた。
 彼らは14世紀までに新たな筆記体を編み出し、単語を区切って書くことや句読点を導入した。そのため従来より速く読み書きすることが可能になった。また13世紀までに黙読が一般化し、修道院や大聖堂付属学校、宮廷や商人の事務室に普及した。15世紀になると、大学では図書室が拡張され、静かな場所とされるようになった。つまり静寂と書物の内容理解が結びつけられたのである。こうして人々はより速く多く読めるようになり、おそらくより多くを学べるようになった。

 人々は資格が支配する領域にさらに踏み込んでいったが、その先駆けは作曲家・画家・会計係だった。彼らは歌うこと・絵を描くこと・帳簿の数字を合わせることを実行しなければならなかったが、それらは現実を視覚的・数量的に表現することに他ならない。

病理的状態は正常な状態と質的に異なる カンギレム(1987)第Ⅰ部第1章Ⅲ–Ⅴ

ジョルジュ・カンギレム『正常と病理』滝沢武久訳、法政大学出版局、1987年、4291ページ。
  
第Ⅰ部 正常と病理に関するいくつかの問題についての試論

第1章 病理的状態は、正常な状態の量的変化にすぎないか? 
  
Ⅲ クロード・ベルナールおよび実験病理学
・ベルナールは正常なものと病理的なものとの関係について、一見コントと同じような解決をしている。彼は決してコントを参照していないが、無視したわけでもない。  
・病理現象の意味と性質についてのベルナールの思想は、非常に説明しづらい上に、かなり微妙なものである。 
  
・ベルナールは、生理学的現象が完全に解明されれば病理的状態も説明できると考えており、そを示す例として糖尿病が挙げられる 
・彼は病気が正常な機能の不調度を越したり、弱められたり、無効となったりすることから生じると考えていたが、これは当時の多くの生理学者の見解と対立していた。彼らによれば、病気は外から来て有機体につけ加わる一つの実体であった。 
・ベルナールは動物の体内の糖は自身の所産である(単に食物を通して取り入れたものではない)、血液は正常時ブドウ糖を含んでいる、尿中の糖は、血糖値がある限度に達した際に腎臓によって排出されたものである、という三つの点を示した。糖尿病における病理現象とは、血糖の量的過剰であると言える。 
・ベルナールが批判しているのは、生命機能のメカニズムとその所産が、病理的な状態と正常な状態とで質的に異なっているとする主張である。「二つの対立し合う作用因の争いとか、生と死の対立、健康と病気の対立、無機的な性質と有機的な性質との対立などの考えは、使い古されて、その寿命がきた。現象の連続性、それらのわずかずつの漸次的推移、それらの調和などを、至るところに認めなくてはならない」。 
・「わたくしは[...]生物が自然の一般法則に従属するものであり、生物現象は物理的・化学的表現であると信じている。しかし[...]生命活動の型を、無生物界の現象の中に見ることはできない。反対に、たとえ結果は同一だとしても、それらの表現は特殊であり、メカニズムは独特であり、作用因は特有であるとわたくしは明言する。身体の外で生じるのと同じように、身体内部でも生じる化学的現象は、一つもない」。 
・ベルナールにとって、現象の連続性を認めることその独自性を否認することではない。では、彼が無機物と生命現象との関係について述べていることは、生理的現象と病理的現象との関係についても言えるのではないだろうか。 
・ベルナールの思想に残っている曖昧な点は、ビシャやブルセやコントと同様、病理的現象の定義において量概念と質概念が混じっていることである。またさらに、病気という概念は、そもそも科学的あるいは量的に認識できる客観的実在の概念なのかという点も問題になる。 
・ベルナールは「量的な変異」と「程度の差」という二つの表現を無頓着に用いているが、これらの背後では、「等質性」と「連続性」という二つの概念が用いられている。しかしこれらの概念のどちらを用いるかによって要請される論理は異なる。二つの対象の等質性を主張するならば、少なくとも一方の性質を定義するか、相互に共通な性質を定義しなくてはならない。一方二つの対象の連続性を主張するならば、両極の間隔を次第に小さく分割し、用いることが可能な中間段階の全てを挿入すればい。ベルナールにおいては、 連続性の主張が暗に等質性の主張を含んでいる。
・ここでは、ベルナールが病理的現象を正常な現象の量的変異と見なすに、どのような観点に立っているのかを検討する。 
・糖尿病において、尿の中存在するとその尿正常な尿と質的に異なるため、病理的状態として新しい性質が出現していると言える。もし尿を腎臓の分泌作用の産物と見なすなら、尿中の糖は血糖が腎臓の処理能力を超えて溢れ出たものである。限界を超えたブドウ糖と限界内のブドウ糖は質的には同じであり、差異は量だけである。このように生命現象をその表現考えるかそのメカニズム考えるかによって、病理的現象の定義質的になったり量になったりする。 
・ベルナールは糖尿を血糖に、そして血糖を肝臓のグリコーゲン発生に関係付けている点でメカニズムを考慮していることは明らかである。そして彼の説明は量的関係に基づいている。 
・しかし今日では、糖尿は血糖過多だけでなく腎臓の働きを考慮しなければならないと考えられている。腎臓の働きについて語るときには、尿分泌のメカニズムの説明の中で、分析的あるいは量的な用語に完全には置き換えられない概念が導入されている。生理的状態と病理的状態を比較するとき、メカニズムの代わりに症候を置いても、それらの状態の性質の違いが依然として残されていると言える。 
病気をメカニズムに分けるのではなく、全体としての生物体に関わる一つの出来事と見なすとき、この結論はより必要となる。糖尿病には多くの要因に依存していることがわかってきており、局在性は絶対的ではなく特権的なものにすぎない。また局所的な変化に見えるものも実際には全体における変質である。 
・ベルナールの理論は、病理的現象が「その臨床的文脈からひき出された」いくつかの症候に限定されるとき、症候の結果から「部分的な」機能的メカニズムに遡るとき、これらの限られた事例にしか当てはまらない上に、その上でも多くの困難を抱えている。 
・ベルナールの理論によって説明できない事例の一つは伝染病である。そこでは、正常な状態と病理的な状態との連続性が疑わしい。伝染病の感染には微生物が必要であり、感染状態が生物体の正常な状態との不連続性を示さないと主張するのは難しいためである。 
・もう一つは神経系の病気である。そこでは、正常な状態と病理的な状態の等質性が疑わしい。神経系の病気の事例からは、病気による変容を考慮に入れない限り、病理的な状態からは正常な状態を理解できないと結論できるためである。 
・生理学つまり生命の科学が適切なものとなるためには、正常な現象と病理的な現象とを、理論的に同じ重要性を持相互に説明し合うとのできる対象として、取り上げなければならない。だからと言って、病理学が生理学以外のものではないということにはならない上に、病気が正常な状態の拡大や縮小にすぎないということにもならない。 
結局病理的事実は、有機体全体のレベルでのみ、正常な状態の変質として把握できると述べる方が適当である。病気をいくつかの症候に分けたり、それらの併発症から病気を引き離したりするのは人為的である臨床において医者は、期間やその機能ではなく、全体としての具体的な個人と関係する。そのような臨床的情報があるからこそ、病理学はバラバラな機能の分析に徹することができる 
現代の臨床家が病人の視点よりも生理学者の視点を好んで取り上げるのはなぜだろうか。その理由はおそらく、病気の主観的な症候と客観的な症候とが滅多に重ならないという医者の経験にある。病理的状態が、生理的状態と量的に異なるだけでなく全く別のものであるということを、病人の感情は予感しているのだろう。

Ⅳ ルリッシュの考え  
・ルリッシュは、健康状態を自分の身体を意識しないでいること(器官の沈黙)と定義し、逆に病気を、身体についての意識が与えられるような健康への妨害と定義した。この病気についての定義はいわば病人の定義であり、意識の立場から見ると妥当だが、科学の立場から見たいわば医者の定義ではない実際ルリッシュは、器官の沈黙と病気の不在は必ずしも同じではない(気付かれない機能的障害が存在しうる)指摘している。病気は組織のレベルで働くもので、病人なき病気がありうる。 
・ルリッシュは病気と傷害疾患を同一視することに反対し、解剖学的事実は「二次的で副次的なものである」と述べた。しかしその結果として、前述の、病気についての病人の定義は、病理解剖学者の定義より適切なものとなる。「[...]病理的解剖状態が存在するのに、何年の間も症状を出さず、その結果病気をつくり出さないことがありうる。[...]解剖学的には同じ外観のもとで、人は病気でもあり、かつ病気でもない。[...]傷害疾患だけでは、おそらく、臨床的な病気、つまり、病人の病気になるのに十分ではない」。 
・「病気についてのこのような新しい考えは、医学を、生理学すなわち機能の科学と一層緊密に連携させる[...]」。ここで生理学の中では病気と病人一致するが、具体的な人間の意識の中ではまだ一致しない。しかしルリッシュは前者から出発して後者を得る手段を与えている。 
ルリッシュもベルナールと同様に、生理的状態と病理的状態との連続性とその見分け難さを主張している。それらの間の量的な境界点はないものの、同じ原因が量的に変化して異なる効果を作り出すことによって、質的な区別や対立が生じることがある。 
・ルリッシュは痛みの問題について独創的な主張をしている。彼によれば、痛みによって病気が定義されるのではなく、病気そのものとして痛みが示される。ここで彼が病気だと考えているのは、生理的現象の量的変形ではなく「生理的に新しいもの」である。 
・痛みが一つの感覚ではなく全体的反応の現象であると認めることは極めて重要である。痛みが特殊な器官を持っていなくても、そして部位や機能についての情報の価値を持っていなくても、痛みが一つの生命的な感覚であることは認めることができる。 
「病気としての痛み」は具体的意識の領域における個人レベルでの事実であるため、ここでは病気と病人が全面的に一致していると言える。 
  
・コントとベルナールは、治療法の確立のために病理学を解明しようとしている点で共通している。つまり彼らは、生理学の知識を医学的技術に応用するという方向のみを想定している。しかしルリッシュは、病理的状態に刺激された医学的技術から生理学の知識を得るという、逆の方向を考えている。 
・ルリッシュの病気の人間は正常な人間を知るのに役立つという思想は、ベルナールの思想よりコントの思想に近いが、そこには根本的な差異が存在する。コントは、正常な状態についての知識は病理的状態の評価に先行すると同時に病理的状態と独立に構成可能であると考える。対してルリッシュは、病気によってなされた問題提起への解釈の総体が生理学だと考える。 
・生理学と病理学の関係について、コントは哲学者の、ベルナールは科学者の判断をしているが、ルリッシュは技術者の判断をしていると言える。ここでいう技術とは、理論的解決を前提とせず、具体的な問題に注意を向けるものである。 

Ⅴ 理論の意味
今まで説明してきた理論には、悪が実際には存在しないという確信が示されている。病気についての存在論的な考え方の拒否[生理的状態病理的状態を同一と見なし、病気というものはそもそも存在しないと考えること、悪を確認することの拒否である。しかし悪は存在ではないということから、それが意味のない概念だという結論にはならないし、同様に病理的状態が正常な状態[に含まれるもの]であるという結論にもならない。 
またそれらの理論には、環境や自身に対する人間の働きかけは、あらかじめ確立された科学の適用でなければならないという確信がある。そこでは、理論的な確信や進歩の機会が、非理論的、実用的、技術的な活動から偶然見出されるという事実が無視されている。ベルナールにとっても、病理的事実は生理学的説明を作り出すものではなく、生理学的説明を受け入れるものである。 
ベルナールは科学における決定論を主張していた。病理学が前科学的概念に満ちていたときから、実験によって確かめられる数量的法則を持つ生理学は存在していた。「生理学および病理学は、唯一つの同じものである」という原理に決定論の普遍性への信仰が現れている。しかし当時、病理的事実の法則と決定論とが、生理的事実の法則と決定論そのものであるとは必ずしも結論されなかった。 
・決定論の帰結として、生理的なものと病理的なものの本質的同一性の中に、質から量への還元が含れる物理科学は現象を共通の尺度に還元することで説明するため、糖尿病患者かそうでないかを量的なレベルの差異と考えることは物理科学の精神に従うことである。しかし量に還元されたからといって質が廃棄されるわけではない。 
この見方からすると、病理的状態が生理的状態の量的変異だと主張することは不合理である。病理的状態の価値や質は[廃棄されたわけではなく依然として存在しており、それらは]生理的状態の価値や質とは根本的に対象をなすものだからである。