2016年10月27日木曜日

観察と実験の関係、実験的方法の構造 ベルナール(1970)緒論・第一編


クロード・ベルナール『実験医学序説』三浦岱栄訳、1970年、岩波文庫 、13–97ページ。

緒論 
医学は、経験的・哲学的・体系的なものから分析的・科学的・実験的なものに進歩しつつある。そのような科学的医学は、生理学・病理学・治療学の三部門を含み、かつ生理学を一番の基礎としなければならない。また科学的医学は他の科学同様、実験的方法(観察と実験によって得られる事実に対して、推理を応用すること)に基づかなければならない。 
生物の体内で起こる複雑な現象を研究するには、まず実験の原理を提出し、それを生理学・病理学・治療学に応用しなければならない。本書は生理学・病理学・治療学の三つの見地から実験医学の原理を論じる。 


第一編 実験的推理について 

第一章 観察と実験について 
・探究とは、我々の感覚だけを用いる簡単なものから、器械などを用いる必要がある複雑なものまであるが、我々の周囲の隠れた現象を発見・実証するための方法である。それによって我々は観察に達する。さらに我々は、観察した現象に推理を下したり事実を比較したりして吟味するが、これこそが実験と呼ばれるものである。哲学的には「観察は示し、実験は教える」と言える。 

一 観察と実験の諸定義
一般的な見解によれば、観察とは事物や現象を自然が示すままの形で検証することであり、実験とは実験家によって創作・決定された現象を検証することである。このため現象を作り出す点において、観察家は消極的であり、実験家は積極的であると言える。 
観察は予測の有無によって積極的観察と消極的観察に区別されなければならない。また実験も、実験家の実際の手の働きの有無によって積極的実験と消極的実験に区別されなければならない 
・他の定義によれば、観察とは正常で規則正しい事柄を検証することであり、実験とは、自然現象の条件が人の手によって故意に変化や障害を受けた結果を検証することである。た先程と同様に、実験における障害は、実験家の計画性の有無で区別できる。 
ここで注意をしておくと、実験を現象に加えられた変化や障害によって定義するならば、それを正常状態と比較することが言外に含まれている。実験における真の積極的要素は比較である。また結果は条件によって変化するが、背後にある法則は不変である。生理的状態と病的状態は、生命の法則が発する条件の違いにすぎない。 

二 実験を獲得し、観察を論拠とすることは、単に実験または観察をすることとは異なる  
前述の定義は、観察と実験を探索の技術としてだけ考えている点で不十分である。観察と実験においては、事実を得るための検索操作に属する部分と、事実を活用して実験的方法の論拠や規範とする知的操作に属する部分が区別されなければならない。 
「観察をする」「実験をすると述べる場合事実を獲得し、そこから推理によって知識を引き出せるように様々な探索・試験を試みていることを意味する。「観察の上に立ち実験を獲得する」と述べる場合、観察は推理を下す基礎であり、実験は結論を下す基礎である観察とは事実を示すものであり、実験は何かを教えるもの、つまり事物に関する経験を与えるものである。 
・我々が周囲の事物についての経験を得る方法は、経験によるものか実験によるものである。経験は漠然とした無意識的判断によって形作られるが、実験においては明瞭でよく推理されたものに組み立てられた判断を用いる。実験的方法とは、一定の規範によって周囲の事実を観察し、比較し、判断を下すことである。ただしこの規範とは、判断を検査するように(正しい経験を与えるように)規定された他の事実のことを指す。 
・実験的方法において考えるべきことは、厳密な検査方法によって正確な事実を得る技術と、現象の法則を導くために、実験的推理によって事実を運用する技術である。 

三 探求者について、科学的研究について
前節で探究の積極性と消極性による定義や区別は主張できないと示した。それに基づけば、用いる研究操作の性質によって観察家と実験家を区別することはできない。観察家も実験家も事実を証明するために、現象の複雑さに応じた研究方法を用いる探究者である。 
・実験科学の進歩は探究方法の完成度によって測られる。よって実験医学の将来も、生命現象の研究に応用できる研究方法の開発にかかっている。 
・科学の探究においては、簡単な操作つまり探究方法の細部が最も大切である。このことはしばしば無視されたり軽視されたりしてきたが、実験に親しまなければ生命現象に関する有望な一般論に達することはできない。 

四 観察家と実験家について、観察科学と実験科学
観察家は自分では変化させられない現象の研究のために探究方法を用いる人であり、実験家は自然現象を変化させ、自然には生まれない環境や条件でその現象を出現させるために探究方法を用いる人であるこの意味で、観察は自然現象そのままの探究であり、実験は探究者によって手を加えられた現象の探究である。 
ここから、自然的観察の事実について推理する科学である観察科学と、実験家が自ら決定し創造した条件下で得た事実について推理する科学である実験科学を考えることができる。これらの区別は、現象に対して探究者が働きかけられるかどうかという点でなされるまた全ての科学は、最初は観察科学であり、現象の分析が進むと実験科学となりうる。 
・実験的推理については観察科学でも実験科学でも同一であり、推理の出発点になる事実と推理の結論となる事実を、比較によって判断する。ただし観察科学では二つの事実はどちらも観察事実である一方、実験科学では、二つの事実が両方実験から借りられることも、実験と観察から同時に借りられることもある。 
観察科学は進んで実験しないという意味で消極的科学と言える一方、実験科学は物質に干渉し現象の発現を促進するため積極的科学と言える。ここで医学は観察科学でいるべきか実験科学となるべきかという問題が残るが、ここでは実験科学になるべきであると考えていると述べるに留める。 

五 実験は結局惹起された観察にほかならない  
観察も実験も事実の検証である。異なるのは、実験家が検証する事実はそのままでは現れてこないため、自ら出現させなければならない点である。そこで、実験は結局、ある目的で惹起された観察にすぎないと言える。 
・実験家は通常、実験的構想の価値を吟味・証明するために実験する。この場合、実験は吟味の目的で援用された観察であると言える。 
・医学のような揺籃期の科学においては、実験的構想は自然には生まれてこない。よって、研究の道を開くような暗中模索的な実験を行うことを恐れてはならない。これは見るための実験と呼ぶことができる。また実証すべき予想を持たずに実験することもあるが、それは研究の方向を指示するような構想を発見するために観察を喚起するものである。これは、構想を生じさせる目的で喚起された観察であると言える。 

六 実験的推理において実験家観察家から分離されない
科学者は、事実に照らして検証する構想を持っていなければならないと同時に、構想の出発点あるいは吟味として役立つ事実が正当なものであると確かめなければならない。このため、科学者は観察家と実験家を兼ねていなければならない。観察家は現象をそのまま検証し、実験家は推理して実験を工夫する。 
・完全な科学者は①事実を検証し、②この事実に基づいて構想を思い浮かべ、③この構想の上で推理し、実験を組み立て、条件を工夫して実現し、④実験から生まれた新現象を再び観察する。このように同一の探求者が交互に観察者となったり実験家になったりするため、実際には両者は分離できない。 
・実験的方法の以上のような部分は互いに連携しており、一部だけが進歩しても実験科学として進歩しないしかし一切の科学的推理の原動力は構想にある。 


第二章 実験的推理における先験概念と疑念について
・実験的方法の目的は、漠然とした推測や想像に基づく先験概念を、実験的研究によって証明された後験的概念に変えることである。 
・実験的構想は先験概念であるが、一種の仮説の形で現れる。その価値を判断するためには、結果を実験的規範に従わせる必要がある。 
・人間の精神は感情、理性、実験と進んできた。実験的方法による真理の研究においても出発点となるのは感情であり、これが先験概念あるいは直観を生む。次に理性つまり推理が観念を発展させ、論理的結果を演繹する。そして最後に、理性は実験によって導かれる必要がある。 

一 実験的真理は客観的即ち外在的である 
人間の精神には二つの真理がある。一方は意識的・内在的・主観的真理絶対的なものである。他方は無意識的・外在的・客観的真理で、経験的・相対的なものである。真理は関係という形式で人間の精神に現れるが、この関係は、条件が単純で全て理解可能である場合のみ絶対的なものとなる。 
・数学は物の関係を理想化された単純な条件下で表しているため、関係(原理)は絶対的真理として承認される。ここでの推理は論理的演繹によってなされるため、実験によって実証される必要はない。 
・最も単純な自然現象についての実験科学も、現象の関係を人間の精神が理解できる程度に単純な条件下で表している。しかし出発点が主観的真理ではなく観察や実験から得た客観的真理にあるため、実験科学の原理は仮定的なものである。またここでの推理は論理的演繹であり、実験はなされない。 
・生物学は現象の関係が複雑であるため、その原理は一時的・仮定的なものである。ここでの推理は、論理的演繹を用いていても[出発点が不確実なため]不確実であ、実験的検証が必要である。 
・自然科学者や医学者が真理に近づく際に用いることができるのは実験的推理のみである。ただ、それは客観的規範[条件]に関係付けられているため、相対的な真理しか与えない。 

二 直観または感情が実験的構想を生み出す
実験的構想や仮定は実験的推理の出発点となるもので、感情から生み出される。実験的構想が生じるためには外からの刺激つまり事物の観察が必要である。観察の結果その現象の原因に関する予測的観念[実験的構想や仮定]が思い浮かび、理性によってその観念の正否を試すような実験がなされる。仮定はできるだけ真実らしく、実験的に証明できるものでなくてはならない。 
実験的構想がどう喚起されるかは人によって異なり、天分や周囲の知的環境に影響される。 
・実験的方法は、構想を持っている人にとっては役立つが、構想を持っていない人に新たな構想を与えるものではない。良い方法は科学の発達を助け、遭遇しうる誤りの原因に注意を促す。生物学においては現象が複雑で実験の中に誤りの原因を持ち込みやすいため、方法の役割が特に重要となる。 

三 実験家は疑念を発し、固定した観念を避け、またつねに精神の自由を保持しなければならない  
科学者は事物の絶対的必然的因果関係つまりデテルミニスムが存在すること、我々の学説は知識の現状の表現にすぎず不動の真理を表しているとは言えないことの二つを信じなければならない。実験科学における推理の結果を受け入れるか議論するかについて、我々の精神は常に自由である。この自由は哲学的疑念に立脚している。 
生物学特に医学において学説は実に不完全なため、ほぼ完全な自由がある。物理学や化学では学説はより確実になるため、推理の結果により大きな重要性を認めるべきである[自由は減少する]。数学において公理や原理から出発する場合のみ、その真理は絶対必然的・意識的なため、我々は自由ではない。医者や生理学者が観察や学説を信じてよいのは、実験的検証を経た後においてだけである。 
・学説に立脚した固定した思想を持っている場合、学説を確かめることだけが目的になり、発見が阻害される。また自分の学説や構想を偏重する人は、自分の学説を確証するため、あるいは他人の学説を打破するために観察を歪め、事実を誤ることになる。科学者は自由平等の精神を保持し、個人的虚栄心などの感情で見方を歪めてはならない。 
・科学において構想は実験(的方法)という規範のもとに置かれなければならない。ただその規範のもとであれば、憚ることなく構想を展開すべきである。 

四 実験的方法の独立的特徴
実験的方法の特徴は、実験という規範を自らの中に持っているために、事実以外の権威から独立しているということである。よって、ある構想や学説が出されたとき、それを支持する事実だけを求めたり、それを弱める事実を遠ざけたりしてはならない。 
数学において、真理は絶対不動であるため、獲得された真理を並置することで学問が増大する。一方実験科学における真理は相対的なため、革新か、古い真理が新しいものに吸収されるかによって進歩する。実験科学においては、大学者であっても相対的な真理しか主張できないため、個人的権威を誤って尊敬することは科学の進歩の障害となる。 
・実験的方法の進歩は、誤謬の総計が減少し真理の総計が増大することである。それぞれの部分的真理はより一般的真理を構成するために付け加わり、それとともに個人の名前は消え去って、学問は非個人的な形式になる。物理学と化学は既にできあがっている科学であり、実験的方法の独自性や非個性的特徴を十分反映しているが、医学は依然として経験本位であり、まだそれらを反映してはいない。 
・活動の根源である感情は、実験的構想を出現させるために自発性と自由を保持しなければならない。理性は、疑念を発する自由を保ち、構想を実験の規範に置くことを要請する。そして実験が、感情の正しさや構想の有望性を確定させる。 

五 実験的推理における帰納と演繹について
推理は二つの形式がある。一方はまだ知識を持たない人が用いる探究的・質問的形式で、帰納的推理と呼ばれる。他方は既に知識を持っている人が用いる証明的・肯定的形式で、演繹的推理と呼ばれる。さらに科学的方法も二つあり、一つは実験的・物質的科学に特有な帰納的方法(帰納)、もう一つは数学に固有な演繹的方法(演繹)である。我々が従事すべき実験的推理の形式は帰納法である。 
しかし実際に帰納と演繹を明確に分けるのは困難であり、また帰納的推理と演繹的推理はどちらもあらゆる科学に属している。人は既知の事柄を足がかりにして未知の事柄に進むが、いかなる科学においても未知の事柄と既知の事柄は両方とも存在している。そして科学の基礎としての原理や学説は、必ず帰納的推理から得られたものである。数学者も自然科学者も原理を得るにあたっては帰納を使用し原理から出発する際には三段論法によって演繹するが、原理の確実性が異なるために演繹の結果の確実性も異なる 
現象を見た個々の事実に関して思い浮かぶ先験概念実は我々がそれを帰着させようとする原理を含んでいる。そのため我々が帰納していると思っているときでも、実際は演繹していると言える。事実が集まれば集まるほど原理も一般的かつ確実になるが、その原理はあくまで一時的なものである。 

六 実験的推理における疑念について
・実験的法則の基礎の一つは、出発点あるいは原理が絶対的真理でないときには、推理の結論は常に疑問としなければならないということ(疑念)である。実験的推理はスコラ哲学的推理の逆である。 
・ベーコンの帰納論は科学概論の基礎だと考えられているが、彼は科学者でなく、実験的方法の機構も理解しなかった。ガリレオやトリチェリのような大実験家は帰納法のような法則に先立って出現していた。またデカルトはベーコンのものよりはるかに実際的な、実験を喚起するのは疑問のみであるという掟を述べている。 
・医学や生理学に関する場合、懐疑主義と科学的疑念を区別し、この疑念をどこまで推し進めるべきかを決定しなければならない。懐疑家は科学を信じずに自分を信じるが、真の科学者は自分や自分の解釈を疑う一方科学を信じ現象には一定不変の物質的条件があるという現象のデテルミニスムも承認する。 
・実験家の仮定は、実験によって否定される場合と肯定される場合がありうる。前者の場合実験家は自己の構想を放棄するか変更しなければならない。しかし後者の場合でも、直接意識に上らない真理に関する以上、実験家は反対証明を要求しなければならない。 

七 実験的規範の原理について
・実験家は出発点となる先験概念または学説を疑わなければならないため、構想を実験的規範に置くことは絶対的な掟である。この実験的規範の基礎理性のみである。事実は実験的構想に形式を与え、また批判として役立つが、これは理性がそれを承認するという条件のもとで可能となるためである。 
・実験的真理は自然現象の複雑さの中にあるが、それでも絶対的な原理に基づいている。これは現象の条件における意識的必然的デテルミニスムであって、実験とは独立した数学的・絶対的なものである。 
・実験科学においては事物の関係が複雑な現象の中にあり、我々はこれをより簡単な関係や条件に導くため、実験で現象を分析解体する。この分析こそ我々の唯一の手段であり、デテルミニスムは我々を導く原則である。 
・従って、もしある実験において現象が必然的な条件に結びつけられないほど矛盾した形で現れた場合、しばらく様子を見るか、観察に入り込んだ誤りの原因を実験によって探さなければならない。存在条件を決定できない事実を認めることは、デテルミニスムの否定、つまり科学の否定である。 

八 証明と反対証明について
・与えられた条件がある現象の近接原因であることを結論するためには、その条件がなければ現象が生じないことを確かめなければならない。この反対証明は、実験的推理の本質的必然的特徴であり、極端まで推し進められた哲学的疑念である。 
・反対証明(反対実験)と比較実験を混同してはならない。比較実験は、現象を簡単にし、誤りの原因に対して警戒するために援用される比較観察である。一方反対証明は、実験の結論を出す際に必要な一部分を作っている反対判断である。反対証明の重要性は物理学や化学では十分知られているが、医学では全く理解されていない。 
・実験的推理は、デテルミニスムに達するという、全ての科学に共通の目的を目指している。つまり推理と実験によって、自然現象をその存在条件あるいは近接原因に結びつけようとしている。 

2016年10月6日木曜日

プロイセンにおける統計の公表と秘匿 ハッキング(1999)第3章

イアン・ハッキング『偶然を飼いならす--統計学と第二次科学革命』石原英樹・重田園江訳、木鐸社、1999年、26–40ページ。

3章 アマチュアは公表し、官僚は秘匿する

 すべての国家はそれぞれの仕方で統計調査を行っていた。空想家、会計士、軍人が、様々な時期に様々な場所でセンサスを行ったが、近代のセンサスの多くは祖国よりも植民地で多く行われた。それぞれの国家や植民地について興味深い経緯が存在する(例えばカナダ、アメリカなど)が、「19世紀の統計学は、各国の抱えていた諸問題、傷、絶え間ない苦悩についての証言である」 と主張することができるだろう。 
 本章では、1820年すぎに起きた〈数字の洪水〉だけに囚われないために、それに先行するドイツ語圏、特にプロイセンの例から話を始めることにする。国民国家が自らとその力を定義するためには統計局が必要であることに逸早く気づいたのが、ドイツの思想家と国家官僚だったためである。 
 ライプニッツは公式プロイセン統計学の哲学上のトップであり、1685年に中央統計局を設立する考えを固めた。彼は中央統計局が死亡、洗礼、婚姻の記録を集中的に管理することで、様々な行政部門(軍事、民事、鉱業、森林管理、警察)に役立つと考えた。しかし完全な実査enumerationは未だに非現実的なものだった。また彼は国家について56のカテゴリー(男女別人口、社会的地位別人口、武器を持てる男性の数、結婚可能な女性の数、など)で評価することを提案したが、こちらも現実離れしたものだった。 
 ブランデンブルグ・プロイセン王国が1701年に成立したが、当時統計局は存在していなかった。プロイセンにおける実査の動きが始まったのは、フリードリヒ・ヴィルヘルムⅠ世(在位1713–40)の治世になってからであり、彼の官僚たちはまず〈数え上げる〉ための方法を確立しなければならなかった。 
 制度の改革はゆっくりとしか進まなかった。まずブランデンブルグ・プロイセンの四地域において出生、死亡、婚姻記録のための制度が作られ、1719年には(失敗したものの)完全な実査が試みられた。様々な報告体系が試され、集計結果の初の要約は1723年に出版された。1730年までには、人々は九つのカテゴリー(家長、女主人、男児、女児など)に分類され、労働者は24の職業に分類され、建物の分類や家畜なども記述されるようになった。これらの数字は、敵に知られると危険なため国家機密とされた。 

 官製統計は、18世紀は公表が恐れられたが、19世紀には逆に公表が進められた。18世紀に公表されたのは、民間人によって集められた数値だった。編集者にして地理学者、そして旅行家でもあったA. F. ビューイングは、ドイツ諸邦とその近隣の統計情報を満載した二冊の雑誌を刊行した。またゲーテやベルヌイは、旅行記に何でも数えて記録した。 
 18世紀半ばのドイツにおける最も体系的な民間統計はJ. P. ジュースミルヒの『神の秩序』であり、教区の記録や他の未使用のデータを用いて、神の摂理を示す出生、死亡、性比について詳細に記述してある。彼はこの世界の事物の配置そのものが創造主の存在を証明しているという考えに立つ、自然宗教の擁護者であった(出生率を自然神学的に解釈する伝統はイギリス政治算術に始まる)。『神の秩序』は三版を重ね(二版は王室のお墨付きだった)、教区の記録と死亡統計を合わせた膨大な事実の堆積物となった。この著作は、都市で年々死亡率が上昇しているのは不衛生ではなく悪徳のせいだとするなど直接道徳を説いたものだったが、人口調節についてのモデルを用いた分析も見られる。 
 ジュースミルヒはフーコーのバイオポリティクス(生-政治学)に絶え間なく登場した。バイオポリティクスは「社会集団全体を標的とする包括的な測定、統計的な査定、介入を生み出した」ものであり、身体すなわち「生物学的過程、つまり生殖、出生と死亡率、健康状態、平均余命と寿命」に焦点を当てたアナトモポリティクス(解剖-政治学)と対になっていた。しかしフーコーのこの二極化はこの文脈では見出せない。なぜならジュースミルヒの統計的な査定(バイオポリティクス)は、生殖、出生、死亡、健康、平均余命(アナトモポリティクス)と直結していたからである。 
 ドイツのバイオポリティクスは七年戦争(1757–63)の後に本格的に始まったが、そこで話題になったのは人口減少だった。プロイセン統計の特徴の多くはそれへの関心とともに生まれ、フリードリヒ大王の作った熱狂的で自己目的化した官僚制度によって極端なものとなった。 
 彼の治世下で〈数え上げ〉られた事物のカテゴリーのリストは7ページに及んだ。その多くは同じような段階にある他国でも見られるものだったが、新しい試みも存在した。一つは、人口が民間人か軍人かで分けられたことである。人々は地理的な範囲で〈数え上げ〉られていたが、民間人が一箇所に留まることが多いのに対して、軍人は移動したり駐屯地にいることが多いためである。性別分類より市民の分類の方が基本だと見なしたのはプロイセンだけであった。そしてもう一つは、移入民、移出民、国籍別、人種別の統計表が初めて作られたことである。ユダヤ人は1745年に統計表に現れたが、当時は宗教的集団としては扱われていなかった。まもなくユダヤ人は他と完全に切り離された形で定期的な実査が行われるようになった。 

 公式統計の体系の進展は熱狂的なアマチュアによる統計数字の公刊と並行していたが、ドイツ統計学には第三の勢力があり、「大学統計学」と呼ばれていた。イェナ大学の政治学と地理学の教授であったヘルマン・コンリングがその創始者と呼ばれるにふさわしいとされている。またゲッティンゲンのゴットフリート・アッヘンワールは「Statistik」という言葉を確立し、彼がそう呼んだものを「国家についての顕著な事実」を集めることだと考えた。 
 彼らの研究の大部分は定量的なものではなく、むしろ彼らは数字や計算に反感を持っていた。しかし彼らの調査と、例えばビューシングの雑誌の内容には本質的な連続性があるように思われる。ビューシングは徹底的に数字的(統計学的)だったが、背表紙などでは歴史学者-地理学者、つまりアッヘンワールの意味での統計学者だと自称しているのである。 
 19世紀には大きく分けて、大学統計学者の記述的で非数量的な科学と、イギリス政治算術の系譜にある(ドイツではジュースミルヒによって始まった)科学の二つが、統計学という名称の下に存在していた。大学統計学は統計学という言葉を確立したこと以外に統計に関係しないように思われるが、それは過小評価である。プロイセンの統計官僚は数量を扱っていたものの、その統計表は大学統計学者の表に似ており、言葉の代わりに数字があるにすぎなかった。プロイセン官僚は、フリードリヒ大王の閣僚の官僚的熟練と数字のアマチュアの手腕を引き継いでいたとともに、大学統計学の後継者でもあった。 

 ゲーテやベルヌイの旅行記は、イギリスやフランスとは比べものにならないくらい数字への熱狂を伴っていた。アーサー・ヤングのようなイギリスからの旅行者たちは、農業技術だけでなく、数字への熱狂も西側に持ち込んだ。「statistics」という言葉をイギリスに持ち込んだのは、スコットランドの偉大な農業改革者ジョン・シンクレア卿である。彼はドイツから統計についての教えも受け、それはスコットランドを超えて広められた。

必然性の教義 ハッキング(1999)第2章

イアン・ハッキング『偶然を飼いならす--統計学と第二次科学革命』石原英樹・重田園江訳、木鐸社、1999年、18–25ページ。

第2章 必然性の教義  
  
 アメリカ人哲学者C. S. パースは、1892年に「この宇宙の中のすべての事実が法則によって決定づけられているという通念を疑うこと」を提案した。彼は「任意の時点における事物の状態は、『強固な普遍の法則と結びついて他のすべての時点の事物の状態をも完全に規定している』という命題」(=〈必然性の教義〉)を問題とした。彼は「普遍的必然性の理論[...]の無効性を明らかにできた」と論じた後、さらに積極的に、この世界は他に還元することができないという意味で偶然に満ちているchancyと断じ、非決定論者の先頭に立った。  
 〈必然性の教義〉が疑われる前後の違いをはっきりさせるために、パースと、確率数学者ラプラスを対比させてみる。ラプラスは「すべての事象は、たとえそれが小さいために自然の偉大な法則に従っていないように見えても[…]必然的にこの法則から起きるのである」という古典的な必然性言明を書いた。カントをはじめとする哲学者たちは、彼に全面的に賛同した。  
 偶然は決定論的な現象世界でどのように捉えられるのかという点に関しては、あらゆる時代に数多の議論がなされてきた。例えば因果系列の交わりという概念では、一見〈たまたま〉起こったように見える出来事は、非因果的だったのではなく、因果系列が交わった[複数の因果が一緒になった結果そうなった]だけだと説明される。このような必然性の面子を保つための考えは、アリストテレスからトマス・アクィナス、19世紀の確率論者A. A. クルノーに至るまで、何度も出された。 
 哲学的に厳密ではない確率概念も、必然性への脅威にはならなかった。ラプラス以前の最良の確率の教科書を著したド・モアブルは、生起したすべてのことは(たとえ我々が知らなかったとしても)設定の物理的特性によって決定されていると考え、「偶然というのは単なる言葉にすぎない」と述べた。ヒュームはこのフレーズを『人間知性の研究』でそのまま用いている。偶然を幸運や運命のような積極的な力と見なす人物は、ド・モアブルにとっては反宗教的であり、ヒュームにとっては通俗的であった。偶然は理性とは矛盾するものと考えられたのである。 
 ヒュームは〈必然性の教義〉への懐疑で有名なように思われるが、彼が疑っていたのは必然性の実在ではなく、必然性についての我々の認識、つまり自然の内的な働きを知っている[あるいは知ることができる]という主張であった。ラプラスはヒュームよりは楽観的で、我々は無知ゆえに究極原因や偶然に頼ってきたかもしれないが、それらは知識の範囲が拡張するとともにいずれ消え去るだろうと考えていた。 
 ラプラスのこの考えにすべての人が同意したわけではなかった。クザヴィエ・ビシャは「自然の中では、存在、属性、科学はそれぞれ二種ある。存在は有機的か非有機的であり、属性は生命を持つか持たないかであり、科学は生理学か物理化学である」と述べている。そして、物理法則は一定不変であり、物理現象は予測や計算が可能である一方、生理学的な法則は一定不変ではなく、有機的生命の現象は予測や計算ができないと考えた。「すべての生命の働きは多くの変数の作用を受けており[...]これを把握するためには大変な計算が必要である。なぜなら異なった事例ごとに異なった規則を必要とするだろうから」。 
 ただし、ビシャが反論したのは[一定不変な]法則に対してであって、秩序や因果に対してではなかった。彼の生気論は〈決定論の浸食〉を生じさせないどころか、むしろ偶然概念に真っ向から抵抗していた。 
 次章では〈数え上げcounting〉を扱うが、ここでヒュームとカントが生きている時期の〈数え上げ〉を取り上げる。それは、秘匿される官製のものと、公表されるアマチュアのものの二つに大きく分かれる。カントはヘルダーの歴史概念に関する著書の最初の部分と、同時代の有名なドイツ統計の読み物と併読し、普遍史についての小論を書いた。

[...]個々人にあっては驚くほど規則的でなく混乱しているように見える出来事にも、人類全体の行為として見れば、人間に元来備わっている根本的な素質が、たとえ緩慢にせよ絶えず発展している様子を認識できる[...]たとえば、死、誕生、結婚には人間の自由意志が影響を及ぼすので、これらの数値をあらかじめ計算することを可能にするような規則は皆無であるように見える。それにもかかわらず諸国で毎年発表される統計表は、これらの現象が[...]一定不変の自然法則に従って生起していることを立証している。 

数学の記号体系と数字の意味の変化 クロスビー(2003)第6章

アルフレッド・W. クロスビー『数量化革命--ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』小沢千重子訳、紀伊國屋書店、2003年、147–169ページ。

第1部 数量化という革命--汎測量術(パントメトリー)の誕生

第6章 数学

 中世後期からルネサンス期にかけて、西ヨーロッパ人は絶対的な時間と空間という概念を検証し始めたが、これらの概念の優れた点は、絶対性という特性に永続性と普遍性という特性が包摂されていることである。そのため絶対的な時間や空間を計測し、その結果を分析・処理することは有意義な試みだと見なされた。計測という行為は事物を数字によって表現することであり、数字を処理するという行為は数学に他ならない。
 事物を数学的に考察し、物質的な現実世界の研究に数学を応用するという姿勢が速やかに進展するための条件は、この頃かなりの程度まで整っていた。しかし数学そのものが速やかに進展するための条件はまだ整っていなかった。数学は、その記号も技法も十分発達しておらず、また時間や空間という概念と同じくらい均質だとは見なされていなかった。そして数と数の概念は未だ非数学的な意味合いを帯びていた。

 第2章で述べたように、ローマ数字で大きな数を表したり込み入った計算をするのは極めて困難だった。またローマ数字はローマ字を借用しているため、数字と文字が入り混じって混乱が生じるのは避けられなかった。計算盤はこうした状況を克服するのに役立ったものの、特有の短所ももっていた。非常に大きな数と非常に小さな数を同時に処理できず、記録するための機能を備えておらず、また検算ができなかったのである。
 いわゆるアラビア数字(ここではインド・アラビア数字と呼ぶ)は、9世紀のムスリムの学者・著述家であるアル・フワーリズミーの著作がスペインまで達したことで、西ヨーロッパに浸透し始めた。12世紀にはこれがラテン語に訳され、それ以降影響力をもち続けることになった。インド・アラビア記数法では10個の数字でどんな数でも表現でき、計算(筆算と呼ばれた)では全過程が書き残されるため容易に検算でき、計算と記録を同じ数字で行えた。しかしこの新たな記数法を使いこなすには、桁の値とゼロという記号を理解しなければならなかった。桁の値は直感的に把握するのが難しく、またゼロという記号は存在しないことを表すため人々を不安にさせた。ヨーロッパ人がゼロを一つの実数として受け入れるまでには数百年を要した。
 ローマ記数法からインド・アラビア記数法への移行は、紆余曲折を経たゆっくりとしたものだった。西ヨーロッパ人は何世代もの間、様々な記数法を併用し続けた。インド・アラビア数字がローマ数字に勝利するまでには極めて長い時間を要したため、その年を特定することはできない(1500年から1600年の間であることは確かである)。それでもこの変化は重大であった。当時西ヨーロッパの人々は、超国家的・超地域的な言語であるラテン語に代わって各々の母国語を用いるようになっていた一方で、インド・アラビア数字およびそれを用いた計算法という普遍的な言語を採用したのである。

 新たな記数法の採用に続いて、演算の表記法にも変化が訪れた。最も単純な演算記号である+と−の西ヨーロッパへの導入は、インド・アラビア数字よりかなり遅れてのことだった。13世紀の時点で、数同士の関係や演算は言葉で表現されていたが、明瞭さを欠いていた。15世紀後半には、イタリア人が加算と減算を表すために、pやmの上に¯を描いた記号や単語の短縮形を用いていたが、これも代数式で用いられると混乱を招いた。+と−の記号は、1489年にドイツで初めて用いられ、16世紀を通じてイタリアの記号と競合し、フランスの代数学者たちに採用されたことで勝利を収めた。また等号の=は、16世紀半ばにイギリスで発明されたと考えられる。さらに中世以降、乗法記号×は様々な意味合いで使われていた上に、代数式で文字と併用されると混乱が生じやすかった。そのため代数学者は乗法記号を省略するか点(・)で代用した一方、算術家の間では乗法記号を×とする合意は得られなかった。除法記号÷は−に似ていたので混同する恐れがあるとされた。乗法記号と除法記号は未だに表記法が統一されていない。
 15世紀に商人はしばしば複雑な分数を扱わなければならなかったが、彼らを救ったのは十進小数法だった。小数の萌芽は13世紀に現れていたが、シモン・ステヴィンが1585年に『十分の一』で十進小数の体系を詳説し、明確な表記法を一つ提示するまで、実用的な表記法は現れなかった。現在の小数の表記法が出現したのは17世紀で、今日まで普遍的な表記法は確立されていないが、小数がいずれかの形で表記できていることの恩恵は大きい。
 インドとアラビアの代数学者は、xやyのような記号を用いず、単語やその省略形を用いていた。その後しばらく、単語・その省略形・数字を併用して代数式を表記するという状況が続いた。やがてフランスの代数学者たちが、代数的量を表す記号として文字を系統的に用いる方法を開拓し始めた。フランソワ・ヴィエトは16世紀後半に未知数を母音文字で、既知数を子音文字で表記するシステムを使用した。17世紀にはデカルトがこれを整理し、AやBなどアルファベットのはじめの方の文字で既知数を表し、XやYなど終わりの方の文字で未知数を表記する表記法を確立した。門外漢にとって代数の表記法は混乱を招く厄介なものだったが、代数学者は記号の意味内容を無視してその操作に集中できるようになり、優れた業績があげられるようになった。

 数学の記号体系が充実するのと並行して、数字の意味に対する認識も変化した。数とは量を表す記号であって、いかなる性質も帯びていないために有用なのである。しかし中世とルネサンス期の西ヨーロッパにおいて、数字は数量を超越したメッセージの源泉だった。ロジャー・ベーコンは数字に基づいてイスラームの衰退を予測しようとしていたが、彼にとっては数そのものより数が担うメッセージの方を重要視していた(彼にとっては693と663は獣=反キリストを示すという意味で同じものだった)。数学の栄光は、物事を明確にするという特性によってベーコンのような詭弁を暴くことや、物事を普遍化するという特性によって、宇宙の本質のような謎の解明の解明に人間を誘うことである。
 現実世界は数学的に構成されているという我々の信念は、科学および現代文明のほとんどの構成要素が発展するための必要条件であるが、同時に我々の美意識を満足させ我々を虜にするものでもある。プラトンや仏教の僧、キリスト教の教父、さらに時代を下るとロジャー・ベーコンやピエロ・デラ・フランチェスカらが、数字に神秘的な意味を見出していた。
 釈迦を生んだインドは今まで極めて多くの純粋数学者を排出している一方で、純粋なものを求めるジョン・ディーを生んだ西洋では、多くの応用物理学者やエンジニア、会計士を世に送ってきた。この理由を、西ヨーロッパでは実用的な数学が発展するにつれて数秘主義が衰退したからだと考えるのは誤っている。数と計算に基づいた占いは、ルネサンスと宗教改革によってむしろ活気づいたように思われる。その頃若きヨハネス・ケプラーは、プラトン立体に心を奪われ、これで宇宙の構造を説明できると考えた。緻密な観測と記録から彼の仮説は誤っていることが判明したが、彼は諦めずに、立てた理論の全てについて計算を繰り返し、その成否を検討した。この努力によって彼は惑星の運動に関する三つの法則を発見したのである。

 

2016年10月3日月曜日

共有地の悲劇と人口問題 ハーディン(1993)

ギャレット・ハーディン「共有地の悲劇」シュレーダー=フレチェット編『環境の倫理 下』京都生命倫理研究会訳、晃洋書房、1993年、445–470ページ。

 核戦争の見込みに関する論文の末尾で、ウィースナーとヨークは、軍拡競争のディレンマという問題の解決方法は自然科学の中には見つからないと結論した。科学雑誌においてこう主張することは、いささか勇気を要するものである。本稿の関心は、このような「技術的解決方法なき問題」と呼びうる問題に「人口問題」が含まれることを主張し、「人口問題」を検討することにある。
 人口問題を技術的に解決することは不可能である。地球は無限である、あるいは有限かどうかはわからないと述べることは可能であるが、地球は有限だと想定しない限り、人類に降りかかる苦難が増大することは明らかである。従って地球が有限だと想定すると、有限な地球は有限な人口しか維持できないので、人口増加はいつかはゼロになるはずである。そのとき「最大多数の最大幸福」が実現されるかというと、答えは否であろう。第一の理由は、二つ以上の変数を同時に極大化することは数学的に不可能であるためである。第二の理由は、もし我々が人口を極大化しようとするならば、一人当たりの作業カロリー(単なる生存以上の活動に必要なカロリー)を可能な限りゼロにしなければならないが、そうすると幸福が極大化されないことは明らかなためである。
 よって最適人口は極大値よりは小さいことになるが、その値を決定することは極めて難しいし、現時点で最適値を同定した民族はないと考えられる。もし最適値を同定できたならば人口増加率ゼロを維持するだろうが、人口増加率ゼロを達成している(したことがある)繁栄した民族はいない。また人口増加は人口が最適値に未だ達していないことの証拠とも想定できるが、人口が増加し続けている地域の人々は一般に最も悲惨な状態にあるため、この想定も正しいとは思われない。
 人口学における「見えざる手」の観念、すなわち個々人の決定は社会全体にとっても最良であるという想定が正しいならば、生殖についての自由放任主義の継続は正当化され、人類は最適人口を生じさせるために個人の生殖能力をコントロールできると考えられる。しかしその想定が誤っているならば、個人的自由のうちどれが擁護に値するのかを再検討する必要がある。

 実のところ、この「見えざる手」の想定は反駁されており、「共有地の悲劇」と呼ばれる。全ての人が使用できる牧草地を想像してほしい。一人の牧夫が牧草地にもう一頭多く牛を放すと、彼が得る利益は牛一頭分である一方、過度の放牧によって被る不利益は(全ての牧夫によって負担されるため)牛一頭分の数分の一になる。よって合理的な牧夫は牛をもう一頭放すことになる。しかし全ての牧夫が同様に牛を放すと、牧草地は過度の放牧によって破綻してしまう。このように、各人が自らの利益を追求すると、全員が破滅してしまうことを「共有地の悲劇」と呼ぶ。これに対して我々にはいくつか選択肢があるが、それぞれ異論も起きうる。それでも我々は選択しなければならず、さもなければ共有地は破壊されてしまう。
 共有地の悲劇は、逆の形で汚染という問題にも現れる。そこでは共有地から何かを取り出すのではなく、何かを放り込むことが問題となる。合理的な人間にとって、廃棄物を自ら浄化するコストより、共有地に廃棄物を排出するコストの方が小さい。これが全ての人に当てはまるため、我々は「自らの巣を汚す」システムに組み込まれることになる。この問題は人口増加の帰結の一つである。なぜなら、人間が多くなければ排出された汚水は浄化されてしまうが、人間が多くなると汚水が浄化しきれなくなるためである。
 これによって一つの道徳原理が明らかになる。つまり、ある行為の道徳性は、その行為が行われた時点におけるシステムの状況に依存するという原理である。道徳がシステムに影響されるということはこれまでほとんど見落とされてきた。我々が選んだその場しのぎの解決法は、行政立法によって制定法を肥大化させることだったが、そこでは「見張り人を誰が見張るのか」という問題が生じる。よって我々の課題は、「見張り人」の不正を予防するためのフィードバック機構を考案することである。

 人口問題にはもう一つ別の仕方で「共有地の悲劇」が関わっている。我々の社会は福祉国家という性格を強く帯びているため、過度な生殖が行われたとしても、子孫が生き残れるような仕組みになっている。このため、「出産の自由」という概念と、全ての人間は共有地に対する平等な権利をもつという信念が結びつけられると、世界は悲劇的な結末に向かうことになる。
 人類の出生をコントロールするために良心に訴えるのは誤りである。より多くの子どもをもつ人々は、より敏感な良心をもつ人々より、次の世代において人数を増やすことになり、この差異は世代を経るに従って大きくなっていくはずである。よってC・G・ダーウィンが述べたように、「避妊するヒトという亜種は絶滅し、生殖するヒトという亜種に取って代わられる」ことになる。この議論は、共有地を利用している個人に対して、社会が公共善のために自制するよう(良心に)訴える場合全てに当てはまる。そのように訴えることは、人類から良心を消し去るようなシステムを打ち立てることになる。
 良心への訴えかけは、以上のような長期的不利益とともに、短期的な不利益も伴う。もし共有地を利用している人が、良心の名の下にそれを止めるよう告げられると、その人は矛盾する日辰の情報を受け取ることになる。一つは、「共有地の利用を止めないと、責任ある市民として振舞わないとして、あなたを非難するだろう」という意図した情報、もう一つは「共有地の利用を止めたとしたら、他の人々は利用しているのにそれを止めてしまう間抜けだと、あなたを陰であざ笑うだろう」という意図しない情報である。このようなダブル・バインドに捕らえられた人は、精神的健康を脅かされることになる。我々は、このような技術を政策として利用するよう促すべきではない。最近「責任」という言葉も用いられるが、それは「良心」の同義語に過ぎない。「責任」という言葉を使うのであれば、チャールズ・フランクルが述べたように「明確な社会的取り決め」という意味で用いるよう提案したい。

 責任を生じさせる取り決めとは、何らかの強制を伴う取り決めである。強制は、禁止だけでなく自制も創出することができるものである。そしてここで勧める強制とは、利害に関わる多数の人々によって相互に合意された、相互的強制だけである。我々が強制装置を設けて(不平をこぼしながらも)それを受け入れ支持するのは、共有地の悲劇から逃れるためである。そして我々が受容しうるのは、完全なシステムだけではない。なぜなら、現状の利点と不都合を、提案された改革に伴うであろう利益と不都合と、比較することは可能だからである。それによって、実現不可能な想定を含まない、合理的な決定を下すことができる。

 共有地の論理に組み込まれた諸個人がもっている自由とは、全体の破壊をもたらす自由に過ぎない。彼らが相互的な強制の必要を認識すれば、破滅以外の目標を追求する自由を得る。ヘーゲルが述べたように、「自由とは、必然性(必要性)の認識である」。我々が今認識しなければならない必要性とは、出産の自由を放棄することの必要性であり、それによってのみ、「共有地の悲劇」の一形態に終止符を打つことができるのである。

均質かつ計測可能な空間 クロスビー(2003)第5章

アルフレッド・W. クロスビー『数量化革命--ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』小沢千重子訳、紀伊國屋書店、2003年、129–145ページ。

第1部 数量化という革命--汎測量術(パントメトリー)の誕生

第5章 空間--地図・海図と天文学

 西ヨーロッパ人の空間認識の変化は、時間認識の変化ほど急激なものではなく、当初は遅々としていた。しかしそれはやがて、20世紀初頭の物理学における変化に匹敵するほどラディカルな様相を呈するようになった。

 アジアから羅針儀が伝えられると、船乗りたちは冬季にも長距離公開に挑むようになったが、その際羅針儀の示す針路が正しいかを確かめる必要があった。やがて羅針路を引けるような実用的な沿岸航海図が作られ、ポルトラノ海図と呼ばれた。現存する最古のポルトラノ海図は1296年、つまり最初の機械時計が作られたとされる期間の間に作られたものである。この海図には海岸線とその周辺の水域、数カ所に描かれた方位盤(コンパス・ローズ)から引かれた方位線(羅針路)が記載されており、陸地間の距離が短い水域に関しては記述が正確で、十分に目的を果たしていた。しかし長距離の航海となると、ポルトラノ海図は船乗りに錯覚を起こさせる危険性があった。そのため、方向と距離だけでなく名遺跡と形状も正確に表現できる地図の開発が始まった。
 西暦1400年頃、プトレマイオスの『地理学』の写本がフィレンツェにもたらされた。この書物は、時間認識の変化において脱進機が果たした役割を、空間認識の変化において果たすことになった。プトレマイオスは、諸々の天体の位置に基づいて計算した直交座標系を地球に当てはめ、地球の表面をニュートラルな空間として扱った。15世紀のヨーロッパ人は、地球を平面上に描くための数学的に矛盾のない投影図法を、『地理学』によって三つ知ることができた。そして16世紀までに、プトレマイオスの投影図法は西ヨーロッパの地図製作者の間に浸透した。

 西ヨーロッパの地図制作術の歴史は、やみくもに進む実践に理論が追いつこうとするものである。これと並行する天文学(占星術)の歴史は逆に、言葉で表現された捉えどころのない理論に、正確な観測と計算によって実践が追いつこうとするものである。
 「敬うべきモデル」が提示した宇宙像は、比較的自由な発想をするスコラ学者にとっては、限定的で品位に欠けるものだった(なぜ神は宇宙の中心に地球を据えたりするのか、安定が運動より高貴ならなぜ諸々の天体が回転して卑しいはずの地球が静止しているのか)。ニコル・オレームは、天体と地球のどちらが回転しているのかは理性では判断できないとして、議論を地動説の方に進めたが、最終的に自らの思弁を「気晴らし」として引き下がった。
 15世紀、マルシリオ・フィチーノらは、古典古代の神秘的要素に耽溺するとともに、数学に傾倒した。神の啓示が象徴的・神秘的に下されることは確実だが、神はそれを数量化できる次元で示すだろうと彼らは主張した。またドイツ人のレギオモンタヌスは、古典古代の数学者の著作を翻訳・出版し、また自身を含むの当代の数学者の著作も出版した。彼は綿密な天体観測を行い、天体の運動に関する表や書物を著した。
 そしてニコラウス・クザーヌスは、宇宙は神以外の全てを包含し、その宇宙を神が包含していると見なし、さらに宇宙はどの部分も性質や成分は等しいとした。またアリストテレスやスコラ学者による定性分析の手法に代わる新たな道具を、数量化の中に見出した。彼は複雑な問題を単純化し、自らは実験をしないという点ではスコラ学者的であったが、彼のものの見方は、西ヨーロッパにおいて定性的な観点から定量的な観点に世界の見方が移行し始めていたことを示している。
 彼らのような思想家が「敬うべきモデル」で提示されているような宇宙概念から距離を置くにつれて、彼らの影響力は低下していった。16世紀が始まる頃、「敬うべきモデル」の宇宙像は揺るぎないものと思われていたのである。
 そんな中ニコラウス・コペルニクスは、そのような宇宙像をひっくり返し、宇宙の中心に地球ではなく太陽を据えた。彼はこれをオレームやクザーヌスと同じような論拠を挙げて正当化したが、彼が他の人物と異なっていたのは、主に数学によって自分の論理を表現した最初の理論家であったという点である。彼の『天球の回転について』は、ほとんどのページが数式で埋まっている。
 コペルニクス革命の影響は測り知れないほど大きかった。それは、地球を宇宙の中心から引きずり下ろしたからだけでなく、空間そのものの量と質について新たな概念を提示したからである。旧来の宇宙像では、恒星と地球の距離は遠く離れてはいるものの、第2章で述べたように、その距離は人間の次元で表現できるスケールと考えられていた。しかしコペルニクスの宇宙像では、地球と恒星間の距離は想像を絶するほど長く、また宇宙の容積も従来の想定より少なくとも40万倍大きいとされた。

 もし空間が均質かつ計測可能であり、数学的に分析できるものなら、人間の知性が及ぶ空間は大幅に拡大する。そのような例を二つ挙げよう。
 1490年代、スペインとポルトガルは非キリスト教世界の統治権をめぐって争っており、異郷の地に境界線を引く必要があった。両国は1493年にトルデシーリャス条約を、1529年にサラゴサ条約を締結したが、そこで境界線を定める際には経度による計算が用いられた。この境界線は、ルネサンス期のヨーロッパ人が地球の表面を一様かつ均質であると見なしていたことを裏付けている。
 また、1572年、世界中の人々が新しい星を目撃したが、天文学者のチコ・ブラーエはこの星とカシオペア座の9個の星の角距離を計算し、明るさや色の変化を記録し続けた。ブラーエの極めて正確な観測によって、この星と恒星の位置関係は全く変わっていないことが判明した。従って、この新しい星は定説に反して、月下界ではなく、恒星の天球に存在していることが示された。さらに1577年に大きな彗星が現れた際も、ブラーエは精密な観測を行い、彗星が月下界の外(地球と月の距離の約6倍離れたところ)に存在し、また彗星の軌道が完全な縁ではなく楕円を描いていることを示した。これによって2000年近く信じられてきた天球は、存在を否定された。
 このように、16世紀末までに「敬うべきモデル」が提示した空間概念は崩壊し、ニュートンの「絶対空間」という新たな空間概念が登場した。それは均質かつ計測可能な古典物理学の空間であり、道徳規準をもたない空虚な空間であった。

2016年10月2日日曜日

ミクロな時間とマクロな時間の数量的把握 クロスビー(2003)第4章

アルフレッド・W. クロスビー『数量化革命--ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』小沢千重子訳、紀伊國屋書店、2003年、103–127ページ。

第1部 数量化という革命--汎測量術(パントメトリー)の誕生

第4章 時間--機械時計と暦

 時間には実体がないことが、かつて聖アウグスティヌスを悩ませ、今日でも我々を悩ませている。中世の西ヨーロッパ人が時間を計るに当たって、まず実用的な度量衡学に踏み込んだことと、時間の計測技術の開発を暦の改良に先んじて行ったことは、当然の成り行きだった。その理由は、一時間という時間の長さは自然現象ではなく人間の裁量によって決定できる反面、一日という時間の長さは自然現象によって区切られており、また暦は慣習と宗教的権威をまとっているためである。

 ものの売買を通じて数量化の潮流の中にいた都市の住民にとって、時間は何より重要なものとなっていた。中世とルネサンス期には、都市の生活は鐘によって区切られていた。しかし、鐘の音が告げていたのは定時課の時刻であって正確な時刻ではなかった上に、それに合わせて生活するには鐘が鳴らされる回数は少なすぎた。
 ヨーロッパで最初の機械時計を、誰がどこで作ったのかということは、今もわかっていないし、これからもわからないだろう(論理的には、大きくて財力のある修道会(技術的に進んでいたシトー修道会など)の修道士が、北ヨーロッパ、特に北フランスで発明したと推論できる)。機械時計の発明の時期については、特定はできないものの、1270年代と推測されている。1300年代以後は、時間を測る機械への言及が大幅に増えているため、その頃までに機械時計が実在していたことは間違いない。当時の時計には文字盤も針もなく鐘しかついていなかったが、西ヨーロッパ社会はそれでも、数量化された時間の時代に入り込んでいたと言える。
 機械時計の発明以前は、時間は切れ目なく流れるものと見なされていた。そのため時間が流れる姿を模倣することによって(水や砂の流れを計る、ろうそくを燃やすなどして)時間を計ろうとする努力が重ねられたが、それらはうまくいかなかった。時間を、ある長さをもった瞬間が連続したものと見なすことによって初めて、時間の計測が可能になったのである。
 計時装置において錘の降下速度を一定に保つにはどうすればよいかという技術的な問題は、脱進機の発明によって解決された。西ヨーロッパの機械時計は、開発当初から、季節によらず均等な時間を刻んでいた。これはおそらく初期の資本家たちが、季節を問わず労働者に一定時間労働させることを望んたためだろう。西ヨーロッパ人はすでに、時間を均質なものと見なし始めていた。
 また1330年以降、ドイツやイングランド、そしてフランスで、不定時法に代わって定時法が広く採用されるようになった。こうして、目に見えず実体をもたない時間が、客観的な考察の対象となった。
 さらに時計は西ヨーロッパ人に、世界を表象する新しい隠喩(メタファー)を与えた。「世界機械」という類のメタファーは紀元前から存在していたが、14世紀には「時計じかけの宇宙」という極めて明確なメタファーが形成され、ケプラーや、古典経済学とマルクス主義の創始者たちにも影響を与えた。
 天才ではなく一般の人々に目を転じてみると、当時の人口の大部分を占めていた農民が時計をどのように見なしていたのかは、ほとんどわかっていない。しかし都市の住民が機械時計を大いに尊重していたことは確かである。多くの都市が時計を所有するために住民に厳しく課税していたものの、17世紀以前に時計ほど速やかに普及した複雑な機械装置はなかっただろう。名高いストラスブール大聖堂の時計は1352年に建造が始まり、その2年後に完成した。この時計は時刻を告げるだけでなく、自動式のアストロラーベや万年暦、賛美歌を奏でる組み鐘(カリヨン)など、多くの装置が付属していた。この時計は人々に、切れ目なく流れる時間が量で成り立っていること、物事を数量化することを教えたのである。

 西ヨーロッパ人が、時計を開発してそれに従うことを速やかに受け入れた一方、暦の改革には尻込みしたという事実は、驚くには当たらない。むしろ彼らが暦を改革したという事実自体が驚嘆に値することである。
 キリスト教において復活祭の日取りは厳密に決められていた。しかし第2章で述べたように、ユリウス暦では太陽年の長さが誤って算定されたため、暦上の春分の日と天文事象である春分がずれていっていた。つまり復活祭を誤った日取りで行っている可能性があり、これは看過できない問題だった。
 1582年、教皇グレゴリウス13世は専門家に暦の改革を協議させ、グレゴリオ暦と呼ばれることになる新たな暦が用いられることになった。この改革は多くの人々を当惑させ、論争が長く続いたが、結果的にグレゴリオ暦が勝利を収めた。その要因は、この暦は完璧ではなくても実用的であるということであった。ムスリムは当時も今も太陰暦のイスラーム暦で支障をきたしていない(暦と季節の不一致は信仰の実践の妨げにならないようである)こととは対照的に、西ヨーロッパ社会では、復活祭の日取りを正確に決定できないという理由で大胆な改暦が行われた。
 また西ヨーロッパでは、年代決定に数学を応用して、史実に基づく年代学を築こうという機運が高まっていた。同時代人に「諸学問の海」などと評されたヨセフス・ユストゥス・スカリゲルは、それまでの年代学を非難し、15831年に『時間修正論』という大著を表した。彼は年代学の古典的著作の優れた写本や、入手できる限りの50種類以上の暦を収集し、可能な限り正確な暦を作り、主だった年代決定システムの相互関係を明らかにしようとした。
 スカリゲルはそのために、ユリウス周期と名付けた時間の算定法を考案した。彼は当時知られていた三つの周期(28年の太陽周期、19年の太陰周期、古代ローマ帝国が定めた15年の徴税周期)を掛け合わせた積の7980年をユリウス周期とし、またキリスト誕生をこのユリウス周期の4713年と特定した。これによって、ある出来事が起きた日が三つの周期のいずれかに基づく日付で表されている場合、それをユリウス周期の起点からの日数や、他の周期に基づく日付でも表すことができる。さらに、様々な年代記を相互に関係づけることもできるのである。
 しかしその後、ユリウス周期の起点以前に王朝が存在していたことを(誤って)確信したことで、スカリゲルはもう一つの周期を付け加えざるをえなくなり、ユリウス周期の包括的な整合性は失われた。一方17世紀にイエズス会士のペタヴィウスが、受肉以前は過去に向かって年を数えるやり方を導入し、こちらは社会に広く受け入れられて今日に至っている。スカリゲルのユリウス周期はだからといって廃棄されたわけではなく、通常の暦の煩雑さに苦労していた天文学者たちによって採用された。


 時間を正確に計測できるようになると、人々は時間を守るという強迫観念に心を煩わせ、また時間の不可逆性を主張した。17世紀には時間は古典物理学の対象となり、ニュートンが絶対時間を定義した。