2016年10月6日木曜日

数学の記号体系と数字の意味の変化 クロスビー(2003)第6章

アルフレッド・W. クロスビー『数量化革命--ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』小沢千重子訳、紀伊國屋書店、2003年、147–169ページ。

第1部 数量化という革命--汎測量術(パントメトリー)の誕生

第6章 数学

 中世後期からルネサンス期にかけて、西ヨーロッパ人は絶対的な時間と空間という概念を検証し始めたが、これらの概念の優れた点は、絶対性という特性に永続性と普遍性という特性が包摂されていることである。そのため絶対的な時間や空間を計測し、その結果を分析・処理することは有意義な試みだと見なされた。計測という行為は事物を数字によって表現することであり、数字を処理するという行為は数学に他ならない。
 事物を数学的に考察し、物質的な現実世界の研究に数学を応用するという姿勢が速やかに進展するための条件は、この頃かなりの程度まで整っていた。しかし数学そのものが速やかに進展するための条件はまだ整っていなかった。数学は、その記号も技法も十分発達しておらず、また時間や空間という概念と同じくらい均質だとは見なされていなかった。そして数と数の概念は未だ非数学的な意味合いを帯びていた。

 第2章で述べたように、ローマ数字で大きな数を表したり込み入った計算をするのは極めて困難だった。またローマ数字はローマ字を借用しているため、数字と文字が入り混じって混乱が生じるのは避けられなかった。計算盤はこうした状況を克服するのに役立ったものの、特有の短所ももっていた。非常に大きな数と非常に小さな数を同時に処理できず、記録するための機能を備えておらず、また検算ができなかったのである。
 いわゆるアラビア数字(ここではインド・アラビア数字と呼ぶ)は、9世紀のムスリムの学者・著述家であるアル・フワーリズミーの著作がスペインまで達したことで、西ヨーロッパに浸透し始めた。12世紀にはこれがラテン語に訳され、それ以降影響力をもち続けることになった。インド・アラビア記数法では10個の数字でどんな数でも表現でき、計算(筆算と呼ばれた)では全過程が書き残されるため容易に検算でき、計算と記録を同じ数字で行えた。しかしこの新たな記数法を使いこなすには、桁の値とゼロという記号を理解しなければならなかった。桁の値は直感的に把握するのが難しく、またゼロという記号は存在しないことを表すため人々を不安にさせた。ヨーロッパ人がゼロを一つの実数として受け入れるまでには数百年を要した。
 ローマ記数法からインド・アラビア記数法への移行は、紆余曲折を経たゆっくりとしたものだった。西ヨーロッパ人は何世代もの間、様々な記数法を併用し続けた。インド・アラビア数字がローマ数字に勝利するまでには極めて長い時間を要したため、その年を特定することはできない(1500年から1600年の間であることは確かである)。それでもこの変化は重大であった。当時西ヨーロッパの人々は、超国家的・超地域的な言語であるラテン語に代わって各々の母国語を用いるようになっていた一方で、インド・アラビア数字およびそれを用いた計算法という普遍的な言語を採用したのである。

 新たな記数法の採用に続いて、演算の表記法にも変化が訪れた。最も単純な演算記号である+と−の西ヨーロッパへの導入は、インド・アラビア数字よりかなり遅れてのことだった。13世紀の時点で、数同士の関係や演算は言葉で表現されていたが、明瞭さを欠いていた。15世紀後半には、イタリア人が加算と減算を表すために、pやmの上に¯を描いた記号や単語の短縮形を用いていたが、これも代数式で用いられると混乱を招いた。+と−の記号は、1489年にドイツで初めて用いられ、16世紀を通じてイタリアの記号と競合し、フランスの代数学者たちに採用されたことで勝利を収めた。また等号の=は、16世紀半ばにイギリスで発明されたと考えられる。さらに中世以降、乗法記号×は様々な意味合いで使われていた上に、代数式で文字と併用されると混乱が生じやすかった。そのため代数学者は乗法記号を省略するか点(・)で代用した一方、算術家の間では乗法記号を×とする合意は得られなかった。除法記号÷は−に似ていたので混同する恐れがあるとされた。乗法記号と除法記号は未だに表記法が統一されていない。
 15世紀に商人はしばしば複雑な分数を扱わなければならなかったが、彼らを救ったのは十進小数法だった。小数の萌芽は13世紀に現れていたが、シモン・ステヴィンが1585年に『十分の一』で十進小数の体系を詳説し、明確な表記法を一つ提示するまで、実用的な表記法は現れなかった。現在の小数の表記法が出現したのは17世紀で、今日まで普遍的な表記法は確立されていないが、小数がいずれかの形で表記できていることの恩恵は大きい。
 インドとアラビアの代数学者は、xやyのような記号を用いず、単語やその省略形を用いていた。その後しばらく、単語・その省略形・数字を併用して代数式を表記するという状況が続いた。やがてフランスの代数学者たちが、代数的量を表す記号として文字を系統的に用いる方法を開拓し始めた。フランソワ・ヴィエトは16世紀後半に未知数を母音文字で、既知数を子音文字で表記するシステムを使用した。17世紀にはデカルトがこれを整理し、AやBなどアルファベットのはじめの方の文字で既知数を表し、XやYなど終わりの方の文字で未知数を表記する表記法を確立した。門外漢にとって代数の表記法は混乱を招く厄介なものだったが、代数学者は記号の意味内容を無視してその操作に集中できるようになり、優れた業績があげられるようになった。

 数学の記号体系が充実するのと並行して、数字の意味に対する認識も変化した。数とは量を表す記号であって、いかなる性質も帯びていないために有用なのである。しかし中世とルネサンス期の西ヨーロッパにおいて、数字は数量を超越したメッセージの源泉だった。ロジャー・ベーコンは数字に基づいてイスラームの衰退を予測しようとしていたが、彼にとっては数そのものより数が担うメッセージの方を重要視していた(彼にとっては693と663は獣=反キリストを示すという意味で同じものだった)。数学の栄光は、物事を明確にするという特性によってベーコンのような詭弁を暴くことや、物事を普遍化するという特性によって、宇宙の本質のような謎の解明の解明に人間を誘うことである。
 現実世界は数学的に構成されているという我々の信念は、科学および現代文明のほとんどの構成要素が発展するための必要条件であるが、同時に我々の美意識を満足させ我々を虜にするものでもある。プラトンや仏教の僧、キリスト教の教父、さらに時代を下るとロジャー・ベーコンやピエロ・デラ・フランチェスカらが、数字に神秘的な意味を見出していた。
 釈迦を生んだインドは今まで極めて多くの純粋数学者を排出している一方で、純粋なものを求めるジョン・ディーを生んだ西洋では、多くの応用物理学者やエンジニア、会計士を世に送ってきた。この理由を、西ヨーロッパでは実用的な数学が発展するにつれて数秘主義が衰退したからだと考えるのは誤っている。数と計算に基づいた占いは、ルネサンスと宗教改革によってむしろ活気づいたように思われる。その頃若きヨハネス・ケプラーは、プラトン立体に心を奪われ、これで宇宙の構造を説明できると考えた。緻密な観測と記録から彼の仮説は誤っていることが判明したが、彼は諦めずに、立てた理論の全てについて計算を繰り返し、その成否を検討した。この努力によって彼は惑星の運動に関する三つの法則を発見したのである。

 

2016年10月3日月曜日

共有地の悲劇と人口問題 ハーディン(1993)

ギャレット・ハーディン「共有地の悲劇」シュレーダー=フレチェット編『環境の倫理 下』京都生命倫理研究会訳、晃洋書房、1993年、445–470ページ。

 核戦争の見込みに関する論文の末尾で、ウィースナーとヨークは、軍拡競争のディレンマという問題の解決方法は自然科学の中には見つからないと結論した。科学雑誌においてこう主張することは、いささか勇気を要するものである。本稿の関心は、このような「技術的解決方法なき問題」と呼びうる問題に「人口問題」が含まれることを主張し、「人口問題」を検討することにある。
 人口問題を技術的に解決することは不可能である。地球は無限である、あるいは有限かどうかはわからないと述べることは可能であるが、地球は有限だと想定しない限り、人類に降りかかる苦難が増大することは明らかである。従って地球が有限だと想定すると、有限な地球は有限な人口しか維持できないので、人口増加はいつかはゼロになるはずである。そのとき「最大多数の最大幸福」が実現されるかというと、答えは否であろう。第一の理由は、二つ以上の変数を同時に極大化することは数学的に不可能であるためである。第二の理由は、もし我々が人口を極大化しようとするならば、一人当たりの作業カロリー(単なる生存以上の活動に必要なカロリー)を可能な限りゼロにしなければならないが、そうすると幸福が極大化されないことは明らかなためである。
 よって最適人口は極大値よりは小さいことになるが、その値を決定することは極めて難しいし、現時点で最適値を同定した民族はないと考えられる。もし最適値を同定できたならば人口増加率ゼロを維持するだろうが、人口増加率ゼロを達成している(したことがある)繁栄した民族はいない。また人口増加は人口が最適値に未だ達していないことの証拠とも想定できるが、人口が増加し続けている地域の人々は一般に最も悲惨な状態にあるため、この想定も正しいとは思われない。
 人口学における「見えざる手」の観念、すなわち個々人の決定は社会全体にとっても最良であるという想定が正しいならば、生殖についての自由放任主義の継続は正当化され、人類は最適人口を生じさせるために個人の生殖能力をコントロールできると考えられる。しかしその想定が誤っているならば、個人的自由のうちどれが擁護に値するのかを再検討する必要がある。

 実のところ、この「見えざる手」の想定は反駁されており、「共有地の悲劇」と呼ばれる。全ての人が使用できる牧草地を想像してほしい。一人の牧夫が牧草地にもう一頭多く牛を放すと、彼が得る利益は牛一頭分である一方、過度の放牧によって被る不利益は(全ての牧夫によって負担されるため)牛一頭分の数分の一になる。よって合理的な牧夫は牛をもう一頭放すことになる。しかし全ての牧夫が同様に牛を放すと、牧草地は過度の放牧によって破綻してしまう。このように、各人が自らの利益を追求すると、全員が破滅してしまうことを「共有地の悲劇」と呼ぶ。これに対して我々にはいくつか選択肢があるが、それぞれ異論も起きうる。それでも我々は選択しなければならず、さもなければ共有地は破壊されてしまう。
 共有地の悲劇は、逆の形で汚染という問題にも現れる。そこでは共有地から何かを取り出すのではなく、何かを放り込むことが問題となる。合理的な人間にとって、廃棄物を自ら浄化するコストより、共有地に廃棄物を排出するコストの方が小さい。これが全ての人に当てはまるため、我々は「自らの巣を汚す」システムに組み込まれることになる。この問題は人口増加の帰結の一つである。なぜなら、人間が多くなければ排出された汚水は浄化されてしまうが、人間が多くなると汚水が浄化しきれなくなるためである。
 これによって一つの道徳原理が明らかになる。つまり、ある行為の道徳性は、その行為が行われた時点におけるシステムの状況に依存するという原理である。道徳がシステムに影響されるということはこれまでほとんど見落とされてきた。我々が選んだその場しのぎの解決法は、行政立法によって制定法を肥大化させることだったが、そこでは「見張り人を誰が見張るのか」という問題が生じる。よって我々の課題は、「見張り人」の不正を予防するためのフィードバック機構を考案することである。

 人口問題にはもう一つ別の仕方で「共有地の悲劇」が関わっている。我々の社会は福祉国家という性格を強く帯びているため、過度な生殖が行われたとしても、子孫が生き残れるような仕組みになっている。このため、「出産の自由」という概念と、全ての人間は共有地に対する平等な権利をもつという信念が結びつけられると、世界は悲劇的な結末に向かうことになる。
 人類の出生をコントロールするために良心に訴えるのは誤りである。より多くの子どもをもつ人々は、より敏感な良心をもつ人々より、次の世代において人数を増やすことになり、この差異は世代を経るに従って大きくなっていくはずである。よってC・G・ダーウィンが述べたように、「避妊するヒトという亜種は絶滅し、生殖するヒトという亜種に取って代わられる」ことになる。この議論は、共有地を利用している個人に対して、社会が公共善のために自制するよう(良心に)訴える場合全てに当てはまる。そのように訴えることは、人類から良心を消し去るようなシステムを打ち立てることになる。
 良心への訴えかけは、以上のような長期的不利益とともに、短期的な不利益も伴う。もし共有地を利用している人が、良心の名の下にそれを止めるよう告げられると、その人は矛盾する日辰の情報を受け取ることになる。一つは、「共有地の利用を止めないと、責任ある市民として振舞わないとして、あなたを非難するだろう」という意図した情報、もう一つは「共有地の利用を止めたとしたら、他の人々は利用しているのにそれを止めてしまう間抜けだと、あなたを陰であざ笑うだろう」という意図しない情報である。このようなダブル・バインドに捕らえられた人は、精神的健康を脅かされることになる。我々は、このような技術を政策として利用するよう促すべきではない。最近「責任」という言葉も用いられるが、それは「良心」の同義語に過ぎない。「責任」という言葉を使うのであれば、チャールズ・フランクルが述べたように「明確な社会的取り決め」という意味で用いるよう提案したい。

 責任を生じさせる取り決めとは、何らかの強制を伴う取り決めである。強制は、禁止だけでなく自制も創出することができるものである。そしてここで勧める強制とは、利害に関わる多数の人々によって相互に合意された、相互的強制だけである。我々が強制装置を設けて(不平をこぼしながらも)それを受け入れ支持するのは、共有地の悲劇から逃れるためである。そして我々が受容しうるのは、完全なシステムだけではない。なぜなら、現状の利点と不都合を、提案された改革に伴うであろう利益と不都合と、比較することは可能だからである。それによって、実現不可能な想定を含まない、合理的な決定を下すことができる。

 共有地の論理に組み込まれた諸個人がもっている自由とは、全体の破壊をもたらす自由に過ぎない。彼らが相互的な強制の必要を認識すれば、破滅以外の目標を追求する自由を得る。ヘーゲルが述べたように、「自由とは、必然性(必要性)の認識である」。我々が今認識しなければならない必要性とは、出産の自由を放棄することの必要性であり、それによってのみ、「共有地の悲劇」の一形態に終止符を打つことができるのである。

均質かつ計測可能な空間 クロスビー(2003)第5章

アルフレッド・W. クロスビー『数量化革命--ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』小沢千重子訳、紀伊國屋書店、2003年、129–145ページ。

第1部 数量化という革命--汎測量術(パントメトリー)の誕生

第5章 空間--地図・海図と天文学

 西ヨーロッパ人の空間認識の変化は、時間認識の変化ほど急激なものではなく、当初は遅々としていた。しかしそれはやがて、20世紀初頭の物理学における変化に匹敵するほどラディカルな様相を呈するようになった。

 アジアから羅針儀が伝えられると、船乗りたちは冬季にも長距離公開に挑むようになったが、その際羅針儀の示す針路が正しいかを確かめる必要があった。やがて羅針路を引けるような実用的な沿岸航海図が作られ、ポルトラノ海図と呼ばれた。現存する最古のポルトラノ海図は1296年、つまり最初の機械時計が作られたとされる期間の間に作られたものである。この海図には海岸線とその周辺の水域、数カ所に描かれた方位盤(コンパス・ローズ)から引かれた方位線(羅針路)が記載されており、陸地間の距離が短い水域に関しては記述が正確で、十分に目的を果たしていた。しかし長距離の航海となると、ポルトラノ海図は船乗りに錯覚を起こさせる危険性があった。そのため、方向と距離だけでなく名遺跡と形状も正確に表現できる地図の開発が始まった。
 西暦1400年頃、プトレマイオスの『地理学』の写本がフィレンツェにもたらされた。この書物は、時間認識の変化において脱進機が果たした役割を、空間認識の変化において果たすことになった。プトレマイオスは、諸々の天体の位置に基づいて計算した直交座標系を地球に当てはめ、地球の表面をニュートラルな空間として扱った。15世紀のヨーロッパ人は、地球を平面上に描くための数学的に矛盾のない投影図法を、『地理学』によって三つ知ることができた。そして16世紀までに、プトレマイオスの投影図法は西ヨーロッパの地図製作者の間に浸透した。

 西ヨーロッパの地図制作術の歴史は、やみくもに進む実践に理論が追いつこうとするものである。これと並行する天文学(占星術)の歴史は逆に、言葉で表現された捉えどころのない理論に、正確な観測と計算によって実践が追いつこうとするものである。
 「敬うべきモデル」が提示した宇宙像は、比較的自由な発想をするスコラ学者にとっては、限定的で品位に欠けるものだった(なぜ神は宇宙の中心に地球を据えたりするのか、安定が運動より高貴ならなぜ諸々の天体が回転して卑しいはずの地球が静止しているのか)。ニコル・オレームは、天体と地球のどちらが回転しているのかは理性では判断できないとして、議論を地動説の方に進めたが、最終的に自らの思弁を「気晴らし」として引き下がった。
 15世紀、マルシリオ・フィチーノらは、古典古代の神秘的要素に耽溺するとともに、数学に傾倒した。神の啓示が象徴的・神秘的に下されることは確実だが、神はそれを数量化できる次元で示すだろうと彼らは主張した。またドイツ人のレギオモンタヌスは、古典古代の数学者の著作を翻訳・出版し、また自身を含むの当代の数学者の著作も出版した。彼は綿密な天体観測を行い、天体の運動に関する表や書物を著した。
 そしてニコラウス・クザーヌスは、宇宙は神以外の全てを包含し、その宇宙を神が包含していると見なし、さらに宇宙はどの部分も性質や成分は等しいとした。またアリストテレスやスコラ学者による定性分析の手法に代わる新たな道具を、数量化の中に見出した。彼は複雑な問題を単純化し、自らは実験をしないという点ではスコラ学者的であったが、彼のものの見方は、西ヨーロッパにおいて定性的な観点から定量的な観点に世界の見方が移行し始めていたことを示している。
 彼らのような思想家が「敬うべきモデル」で提示されているような宇宙概念から距離を置くにつれて、彼らの影響力は低下していった。16世紀が始まる頃、「敬うべきモデル」の宇宙像は揺るぎないものと思われていたのである。
 そんな中ニコラウス・コペルニクスは、そのような宇宙像をひっくり返し、宇宙の中心に地球ではなく太陽を据えた。彼はこれをオレームやクザーヌスと同じような論拠を挙げて正当化したが、彼が他の人物と異なっていたのは、主に数学によって自分の論理を表現した最初の理論家であったという点である。彼の『天球の回転について』は、ほとんどのページが数式で埋まっている。
 コペルニクス革命の影響は測り知れないほど大きかった。それは、地球を宇宙の中心から引きずり下ろしたからだけでなく、空間そのものの量と質について新たな概念を提示したからである。旧来の宇宙像では、恒星と地球の距離は遠く離れてはいるものの、第2章で述べたように、その距離は人間の次元で表現できるスケールと考えられていた。しかしコペルニクスの宇宙像では、地球と恒星間の距離は想像を絶するほど長く、また宇宙の容積も従来の想定より少なくとも40万倍大きいとされた。

 もし空間が均質かつ計測可能であり、数学的に分析できるものなら、人間の知性が及ぶ空間は大幅に拡大する。そのような例を二つ挙げよう。
 1490年代、スペインとポルトガルは非キリスト教世界の統治権をめぐって争っており、異郷の地に境界線を引く必要があった。両国は1493年にトルデシーリャス条約を、1529年にサラゴサ条約を締結したが、そこで境界線を定める際には経度による計算が用いられた。この境界線は、ルネサンス期のヨーロッパ人が地球の表面を一様かつ均質であると見なしていたことを裏付けている。
 また、1572年、世界中の人々が新しい星を目撃したが、天文学者のチコ・ブラーエはこの星とカシオペア座の9個の星の角距離を計算し、明るさや色の変化を記録し続けた。ブラーエの極めて正確な観測によって、この星と恒星の位置関係は全く変わっていないことが判明した。従って、この新しい星は定説に反して、月下界ではなく、恒星の天球に存在していることが示された。さらに1577年に大きな彗星が現れた際も、ブラーエは精密な観測を行い、彗星が月下界の外(地球と月の距離の約6倍離れたところ)に存在し、また彗星の軌道が完全な縁ではなく楕円を描いていることを示した。これによって2000年近く信じられてきた天球は、存在を否定された。
 このように、16世紀末までに「敬うべきモデル」が提示した空間概念は崩壊し、ニュートンの「絶対空間」という新たな空間概念が登場した。それは均質かつ計測可能な古典物理学の空間であり、道徳規準をもたない空虚な空間であった。

2016年10月2日日曜日

ミクロな時間とマクロな時間の数量的把握 クロスビー(2003)第4章

アルフレッド・W. クロスビー『数量化革命--ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』小沢千重子訳、紀伊國屋書店、2003年、103–127ページ。

第1部 数量化という革命--汎測量術(パントメトリー)の誕生

第4章 時間--機械時計と暦

 時間には実体がないことが、かつて聖アウグスティヌスを悩ませ、今日でも我々を悩ませている。中世の西ヨーロッパ人が時間を計るに当たって、まず実用的な度量衡学に踏み込んだことと、時間の計測技術の開発を暦の改良に先んじて行ったことは、当然の成り行きだった。その理由は、一時間という時間の長さは自然現象ではなく人間の裁量によって決定できる反面、一日という時間の長さは自然現象によって区切られており、また暦は慣習と宗教的権威をまとっているためである。

 ものの売買を通じて数量化の潮流の中にいた都市の住民にとって、時間は何より重要なものとなっていた。中世とルネサンス期には、都市の生活は鐘によって区切られていた。しかし、鐘の音が告げていたのは定時課の時刻であって正確な時刻ではなかった上に、それに合わせて生活するには鐘が鳴らされる回数は少なすぎた。
 ヨーロッパで最初の機械時計を、誰がどこで作ったのかということは、今もわかっていないし、これからもわからないだろう(論理的には、大きくて財力のある修道会(技術的に進んでいたシトー修道会など)の修道士が、北ヨーロッパ、特に北フランスで発明したと推論できる)。機械時計の発明の時期については、特定はできないものの、1270年代と推測されている。1300年代以後は、時間を測る機械への言及が大幅に増えているため、その頃までに機械時計が実在していたことは間違いない。当時の時計には文字盤も針もなく鐘しかついていなかったが、西ヨーロッパ社会はそれでも、数量化された時間の時代に入り込んでいたと言える。
 機械時計の発明以前は、時間は切れ目なく流れるものと見なされていた。そのため時間が流れる姿を模倣することによって(水や砂の流れを計る、ろうそくを燃やすなどして)時間を計ろうとする努力が重ねられたが、それらはうまくいかなかった。時間を、ある長さをもった瞬間が連続したものと見なすことによって初めて、時間の計測が可能になったのである。
 計時装置において錘の降下速度を一定に保つにはどうすればよいかという技術的な問題は、脱進機の発明によって解決された。西ヨーロッパの機械時計は、開発当初から、季節によらず均等な時間を刻んでいた。これはおそらく初期の資本家たちが、季節を問わず労働者に一定時間労働させることを望んたためだろう。西ヨーロッパ人はすでに、時間を均質なものと見なし始めていた。
 また1330年以降、ドイツやイングランド、そしてフランスで、不定時法に代わって定時法が広く採用されるようになった。こうして、目に見えず実体をもたない時間が、客観的な考察の対象となった。
 さらに時計は西ヨーロッパ人に、世界を表象する新しい隠喩(メタファー)を与えた。「世界機械」という類のメタファーは紀元前から存在していたが、14世紀には「時計じかけの宇宙」という極めて明確なメタファーが形成され、ケプラーや、古典経済学とマルクス主義の創始者たちにも影響を与えた。
 天才ではなく一般の人々に目を転じてみると、当時の人口の大部分を占めていた農民が時計をどのように見なしていたのかは、ほとんどわかっていない。しかし都市の住民が機械時計を大いに尊重していたことは確かである。多くの都市が時計を所有するために住民に厳しく課税していたものの、17世紀以前に時計ほど速やかに普及した複雑な機械装置はなかっただろう。名高いストラスブール大聖堂の時計は1352年に建造が始まり、その2年後に完成した。この時計は時刻を告げるだけでなく、自動式のアストロラーベや万年暦、賛美歌を奏でる組み鐘(カリヨン)など、多くの装置が付属していた。この時計は人々に、切れ目なく流れる時間が量で成り立っていること、物事を数量化することを教えたのである。

 西ヨーロッパ人が、時計を開発してそれに従うことを速やかに受け入れた一方、暦の改革には尻込みしたという事実は、驚くには当たらない。むしろ彼らが暦を改革したという事実自体が驚嘆に値することである。
 キリスト教において復活祭の日取りは厳密に決められていた。しかし第2章で述べたように、ユリウス暦では太陽年の長さが誤って算定されたため、暦上の春分の日と天文事象である春分がずれていっていた。つまり復活祭を誤った日取りで行っている可能性があり、これは看過できない問題だった。
 1582年、教皇グレゴリウス13世は専門家に暦の改革を協議させ、グレゴリオ暦と呼ばれることになる新たな暦が用いられることになった。この改革は多くの人々を当惑させ、論争が長く続いたが、結果的にグレゴリオ暦が勝利を収めた。その要因は、この暦は完璧ではなくても実用的であるということであった。ムスリムは当時も今も太陰暦のイスラーム暦で支障をきたしていない(暦と季節の不一致は信仰の実践の妨げにならないようである)こととは対照的に、西ヨーロッパ社会では、復活祭の日取りを正確に決定できないという理由で大胆な改暦が行われた。
 また西ヨーロッパでは、年代決定に数学を応用して、史実に基づく年代学を築こうという機運が高まっていた。同時代人に「諸学問の海」などと評されたヨセフス・ユストゥス・スカリゲルは、それまでの年代学を非難し、15831年に『時間修正論』という大著を表した。彼は年代学の古典的著作の優れた写本や、入手できる限りの50種類以上の暦を収集し、可能な限り正確な暦を作り、主だった年代決定システムの相互関係を明らかにしようとした。
 スカリゲルはそのために、ユリウス周期と名付けた時間の算定法を考案した。彼は当時知られていた三つの周期(28年の太陽周期、19年の太陰周期、古代ローマ帝国が定めた15年の徴税周期)を掛け合わせた積の7980年をユリウス周期とし、またキリスト誕生をこのユリウス周期の4713年と特定した。これによって、ある出来事が起きた日が三つの周期のいずれかに基づく日付で表されている場合、それをユリウス周期の起点からの日数や、他の周期に基づく日付でも表すことができる。さらに、様々な年代記を相互に関係づけることもできるのである。
 しかしその後、ユリウス周期の起点以前に王朝が存在していたことを(誤って)確信したことで、スカリゲルはもう一つの周期を付け加えざるをえなくなり、ユリウス周期の包括的な整合性は失われた。一方17世紀にイエズス会士のペタヴィウスが、受肉以前は過去に向かって年を数えるやり方を導入し、こちらは社会に広く受け入れられて今日に至っている。スカリゲルのユリウス周期はだからといって廃棄されたわけではなく、通常の暦の煩雑さに苦労していた天文学者たちによって採用された。


 時間を正確に計測できるようになると、人々は時間を守るという強迫観念に心を煩わせ、また時間の不可逆性を主張した。17世紀には時間は古典物理学の対象となり、ニュートンが絶対時間を定義した。

2016年9月30日金曜日

数量化という変化の必要条件 クロスビー(2003)第3章

アルフレッド・W. クロスビー『数量化革命--ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』小沢千重子訳、紀伊國屋書店、2003年、71–101ページ。

第1部 数量化という革命--汎測量術(パントメトリー)の誕生

第3章 「数量化」の加速

 中世の西ヨーロッパ社会には、現実世界を定性的にではなく数量的に把握しようとする機運が芽生えていた。本書は、そのようなアプローチの変化あるいはそれを志向する傾向が、1250年前後から加速された状況を明らかにすること、さらにその加速の原因を解明することを意図している。
 本章ではそのような数量的なものの見方の背景を考察する。これは変化の必要条件であって十分条件ではないことに留意されたい。続く第4〜6章では、当時の人々が現実世界を数量的に把握しようとしたことを具体的に裏付ける事物を検証する。そして第2部の各章では、変化の十分条件を考察する。

 西暦1000〜1300年の間に、西ヨーロッパの人口は2倍ないし3倍に急増した。1300年代半ばには黒死病の流行でヨーロッパの人口の約3分の1が失われたものの、その後100年も経たないうちに人口は以前のピークを超え、都市が再び発展し始めた。西ヨーロッパ人は度々異教徒の土地と海路を侵略した。また西ヨーロッパでは農民と都市住民との交易が増大した。
 中世ヨーロッパ社会は農民・貴族・聖職者の三層で構成されていたが、この枠を超えた新たなタイプの人々が出現した。そのような人々は商人や法律家、写字生などを含んでおり、市の立つ町や城砦都市の都市の住民(ブルジョアジー)であり、読み書きと計算に秀でた実力主義のエリート階層を構成していた。彼らの多くは動力機械を用いた事業で富を築き、それによって社会的地位を得た。
 当時のヨーロッパ社会には、確固たる政治的・宗教的・文化的権威は存在しておらず、様々な組織の権威が錯綜し、それによって抑圧と均衡が保たれていた。その中でブルジョアジーたちは有力な派閥を形成し、政界で重要な地位についた。伝統的な指導者たちもブルジョアジーたちの富と技術に頼らざるをえず、彼らを抑圧することはできなかった。
 また当時のヨーロッパ社会では、社会的枠組みだけでなく知的枠組みも固まっていなかった。西ヨーロッパ文明は古代からの伝統をもっていない点で異色であった。そのため「敬うべきモデル」は外来の要素を多く含んでいた上に、本質的に相容れない要素(合理主義的なギリシア的要素と、神秘主義的なヘブライ的要素)を内包していたため、全体として調和がとれていなかった。そのため説明が一貫していなかったり、当面の要求に応えられない場合があった。
 12世紀には古代ギリシアとイスラームの著作のラテン語訳が、そして13世紀にはアリストテレスの全著作のラテン語訳が、それぞれ西ヨーロッパにもたらされた。アリストテレスの著作は精密な知識と高度に洗練された解釈の体系を有し、あらゆる事柄を説明していた。アリストテレスの明晰な説明を前にして、「敬うべきモデル」は説明する力を失った。
 西ヨーロッパ人はゆっくりと、現実世界を新たな見方で見るようになり始めていた。こうして形成された世界像を「新しいモデル」と名付けることにする。「新しいモデル」の際立った特徴は、正確さと物理的現象の数量的把握、そして数学を重視していることである。

 「新しいモデル」の形成に貢献したのは主に都市の住民であり、特に新興のエリート階級や文化的前衛のメンバーには注目する必要がある。彼らの生活拠点は、大学と市場のいずれかにあった。
 市場は以前から存在していたが、大学は西ヨーロッパで誕生した。12世紀前半は、学生たちが自発的に私塾の教師のもとに集まっていたため、教師と学生という身分は制度化されていなかった。しかし12世紀のうちに教師と学生のグループが統合され、大学として制度化された。その中で最も大きな影響力をもったのがパリ大学である。13世紀にはパリ大学は規模も大きくなり、高い評価を得ていたため、大学一般が西洋文明の永続的かつ不可欠な要素となる基盤が築かれた。
 大学の哲学と神学の教師は「スコラ学者」と総称され、中世の西ヨーロッパで最も影響力のある知識人だった。彼らは「新しいモデル」の祖父母の世代に属していたと言える。彼らはまず、古典古代の異教徒やイスラームの文化、そして過去のキリスト教世界から受け継いだ膨大な知的遺産を系統立てて整理するという難問に取り組んだ。その中で彼らが考案したのは、本文を章に分けてそれぞれにタイトルをつけるというやり方・欄外見出し・相互参照システム・引用文献の一覧表示・書物のアルファベット順の配列システム・書物の内容を小分けにして目次を示すというやり方など多岐にわたる。
 また彼らは論理における厳密さと表現における明快さの意義を再発見し、散文の中で緻密な思考を適切に表現するシステムを完成させた。これを極限まで推し進めれば数学に到達するが、その道のりは概念的には遠いものだった。スコラ学者は、定性的なものの見方をしたプラトンやアリストテレスのような哲学者の系統に属していたのである。
 14世紀には彼らは計測を伴わない数学を発展させ、特にイングランドでは、アリストテレスが諸性質と称した事象を考察する際に代数や幾何学が用いられた。一方ロジャー・ベーコンを筆頭に、事物を計測する例外的なスコラ学者も存在した。
 このように、スコラ学者が事物の性質を叙述する適切な表現方法を模索する過程で、事物を数量的に把握しようとする傾向が生まれた。

 このような傾向をもたらしたもう一つの原因は貨幣経済である。揺籃期の西ヨーロッパ社会では、金属貨幣は、それが含有する金属の価値以上の抽象的価値をほとんどもっていなかった。しかしムスリムとヴァイキングの侵略が止むと、封建領主はまがりなりにも法と秩序を確立し、農業の生産性が向上した。それによって供給が増大し、商業と都市が復興した。自治都市や国家は金属貨幣を作り始め、西ヨーロッパの貨幣は最も広く流通する通貨となった。
 こうして西ヨーロッパ社会はいつの間にか貨幣経済に移行した。そこでは日常用いられるあらゆる品物が、そして奉仕や労働の義務や時間までもが、価格として数量化された。
 やがて北イタリアの諸都市が、西ヨーロッパでは久しく途絶えていた金貨の造幣を開始した。これらの金貨は、素材の金の市場価値だけでなく、発行した市当局が保証する価値を保有すると見なされたため、西ヨーロッパに新しい抽象的な価値の尺度が出現した。さらに、状況が流動的であっても請求と支払いを行わざるをえないという状況が発生した際に、計算上でのみ存在する「計算貨幣」という概念が発展した。これはその後、信用ある金属貨幣の価値を基準として任意に定めた通貨の相対的な価値を示すようになった。

 このように現金を仲立ちとした貨幣経済の中で、西ヨーロッパ社会は物事を数量的に把握する習慣を体得した。しかしなぜ西ヨーロッパ社会では、貨幣経済への移行がこれほどの影響をもたらしたのだろうか? その一因は慢性的な金の不足である。貨幣経済移行当時は十分な貴金属の在庫がなく、16世紀に入るまで西ヨーロッパ社会は慢性的な支払い超過に悩まされていた。そして金利も高く設定されていた。西ヨーロッパ人ほど、金貨銀貨に心を奪われ、その重さと純度に気を回し、現金の代替物である為替手形その他の証書類について策略をめぐらせた人々、つまり計算にとりつかれた人々は、かつて存在しなかったのである。

2016年9月29日木曜日

「敬うべきモデル」の時間・空間・数学 クロスビー(2003)第2章

アルフレッド・W. クロスビー『数量化革命--ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』小沢千重子訳、紀伊國屋書店、2003年、37–70ページ。

第1部 数量化という革命--汎測量術(パントメトリー)の誕生

第2章 「敬うべきモデル」--旧来の世界像

 パントメトリー、ミリオーネ(Milione、1000の1000倍)などの新たな造語は、方向を変えつつあった西ヨーロッパ社会と、中世とルネサンス期の西ヨーロッパ人の大部分が正しいと考えていた世界像との摩擦の結果生まれたものと言える。そのような旧来の世界像をここでは「敬うべきモデル」と呼ぶことにする。
 「敬うべきモデル」が提示した構造とプロセスは、人間が知的に理解できるとともに感情的にも受け入れられるものだった。例えば、原初から終末の日までの時間や宇宙の空間的巨大さは、人間が理解可能な範囲を超えるものではないと考えられていた。また西ヨーロッパ人たちは、現実世界を時間と場所によって差異のある不均質なものと見なしていた。
 「敬うべきモデル」を受け入れていた人々は象徴的な表現を好んだ。例えば、イエスが磔刑に処せられたエルサレムこそが、地球上で人間が住む地域の中心でなければならなかった。また、歴史は全て、旧約聖書の『ダニエル書』に由来する「四世界帝国論」の枠組みに組み込まれていると考えられていた。
 ここで「敬うべきモデル」を、時間・空間・数学と言う三つの側面から吟味してみる。ローマ帝国の崩壊から中世を経てルネサンスに至る1000年間を通覧し、西ヨーロッパ人のものの見方がどれほど広く、そして長く受け入れられていたかという基準から、本書で扱う素材を選ぶことにする。

 まず時間について考察する。ヨーロッパ人は、人間に与えられた時間(原初から終末の日までの時間)はそれほど多くないと考えていた一方で、そもそも時間については深く考えないのが普通だった。通常日付は漠然としか表されていなかったし、その混沌とした時間概念のために、当時の出来事は正確に時系列的に考察できるわけではない。個人の生涯より長い時間は、救済と断罪のドラマのステージとして思い描かれていた。
 西ヨーロッパ人はこのような時間のステージを数通りに区分した。しかしどのような区分法においても、それぞれの時代は質的に、さらには時として量的にも異なると見なされていた。それは彼らが時系列的な因果関係という明確な概念を有していなかったことに起因する。ある時代から次の時代への移行は急激に、唐突に訪れるものだった。
 カエサルによって新たに制定されたユリウス暦は、西ヨーロッパ人に受け継がれ、その後1500年以上にわたってキリスト教世界の標準的な暦になった。しかしこの改暦によっても時間の区切り方に関する問題が解決したわけではなかったし、そもそもこの暦も実際の時間とのズレが残っていた。これは、年ごとに変動する復活祭の日取りを正確に決める必要のある聖職者たちにとっては重要な問題だった。彼らは慣習と太陰暦と太陽歴を組み合わせたルールを編み出したが、これを用いても日取り決めは困難であり、天文学者や数学者を悩ませた。
 当時ヨーロッパ人は時刻を知るために、教会の鐘の音を用いていた。教会の鐘は一日七回の祈祷時(七定時課)に、時刻のように厳密な点ではなく、一定の幅を持った時間の中で鳴らされていた。noon(正午)の語源は定時課のnone(九時課)であり、当初九時課を告げる鐘は15時前後に鳴らされていた。しかしそれが中世の間に次第に早くなり、12世紀には正午頃(六時課)に鳴らされるようになった。この原因は修道士の断食の期間を短くするため(九時課の鐘がなるまで食事が取れなかった)と考えられるが、ダンテは六時課の六が高貴な完全数であったためだと述べている。このようなnoonの時刻の変遷は、中世のヨーロッパ人が時間の正確さには無頓着で、その象徴的価値を重視していたことを示している。
 中世のヨーロッパ人は、時間が輪のように循環すると考えていた点で現代人と酷似している。しかし彼らはキリスト教徒であるために、始まりと終わりをもつ直線的な時間という概念を神聖視していた。

 次に空間について考察する。中世とルネサンス期において宇宙は、最外殻をなす球体の中に、多数の球体が入れ子状に収まっていると考えられていた。それらの球体は完全に透明であり、それぞれ天球を担っている。そしてこれらの天球と天体は全て、完全な円運動をする。なぜなら天体は完全なものであり、一方円はもっとも完全で高貴な形であるからである。また天体と天球は全て、完全な元素である第五元素で構成されている。
 一方、月の天球より下(月下界)に存在するものは四元素で構成されており、いずれも変化し、高貴ではない。また月下界で自然に生じる運動は不完全な直線方向の運動である。また月下界は一様ではなく、気候・植物相・動物相に地域差が存在し、また地理や基本方位にさえも質的な差異があると見なされていた。
 地理に関する情報が乏しかったため、当時地図は極めて単純なものだった。何世紀にもわたって、通常はエルサレムを中心に描いたTO地図が世界地図として珍重されていたが、13世紀には最新版の世界地図としてエプシュトルフ地図が用いられた。これには近くにあるものと遠くにあるもの、そして重要なものと重要でないものについて情報を提供する意図があったが、その表現方法が非定量的・非幾何学的であるため、表現主義派の画家が描いた肖像画のような印象を与えるものである。

 最後に数学について考察する。数量の表現方法ほど、中世とルネサンス期の西ヨーロッパ人と現代人のものの考え方の違いが際立っているものはない。西ヨーロッパ人たちは数量を正確に表現する姿勢を受け継いでいなかったが、それには物事を数学的に表現するための明確かつ簡潔な手段がないという背景があった。彼らがローマ帝国から受け継いだ記数法は、市での計算や地方税の徴収以上の規模になると十分な役割を果たせなかった。
 中世のヨーロッパ人は数の表記にローマ数字を用いたが、計算の際には手の指を使い、より複雑な計算には計算盤(アクバス)を使用した。指や計算盤を用いると、桁の値やゼロの概念を知らなくても計算をすることができた。計算盤は、西暦500年〜1000年頃まで西ヨーロッパで使われた形跡が認められないが、フランスの修道士ジェルベールによって復活させられた。11〜12世紀には初歩的な計算に関する論文のほとんどが計算盤の使用法について論じたものとなり、16世紀には計算盤は西ヨーロッパ全域に広がっていた。
 中世の西ヨーロッパ人が数や量を論理的に考察できなかった原因は、一つは彼らが無知だったことにある。しかしそれ以上に大きな原因として、数が単に量を表すものではなく、特定の性質と結びつけられていたことにある。彼らは数に対して、詩人が言葉に対してもつような感性を発揮していた。

 ここまで「敬うべきモデル」を吟味してきたが、その真の問題点は、神と神の目的があらゆるものを覆っているということである。当時のヨーロッパ人が構想した宇宙は、様々な特性を備えており、数量によって構成されているものではなかった。

2016年9月28日水曜日

16世紀西ヨーロッパのマンタリテとしての数量化 クロスビー(2003)第1章

アルフレッド・W. クロスビー『数量化革命--ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生小沢千重子訳、紀伊國屋書店、2003年、1536ページ。

第1部 数量化という革命--汎測量術(パントメトリー)の誕生

第1章 数量化するということ

 9世紀の時点では、西ヨーロッパ人はムスリムから鈍重で粗野だと評されていた。しかし16世紀には、彼らはある種の数学と新たな機械技術の分野で世界的に優れた存在となった。この間に西ヨーロッパ人はどのような進歩を遂げていたのだろうか? また彼らのマンタリテ(心性、精神構造やものの考え方)にはどのような変化があったのだろうか? まずは変化の結果であるところの、16世紀の西ヨーロッパ人のマンタリテを検証する。

 ここではピーテル・ブリューゲルが1560年に制作した銅版画『節制』から、当時の社会を考察してみることにする。画面上部中央では、天文学者や地図製作者たちが測量を行っている。ブリューゲルは、彼の同時代人が当時の測量技術を誇らしく思っていると考えていたのだろう。
 画面上方右側には、大砲などの武器とそれを扱う人々が描かれている。この時代のヨーロッパ社会においては戦争が主要な関心事であり、銃や大砲などで武装した大量の兵士の編成を行うために、将校たちは代数や数字を扱わねばならなかった。
 上方右側の大砲の下では、五人の人物が大きな本(おそらく聖書)を読んでおり、その下では教師が子どもたちに文字の読み方を教えている。15世紀にはヨハネス・グーテンベルクによって印刷が可能になったが、彼の最も有名な印刷物がマザラン聖書である。
 下方左側では人々が一心不乱に計算を行っており、そのすぐ上にはこちらに背を向けた画家(ブリューゲル自身?)がいる。なおこの版画はルネサンス遠近法を敢えて破ることで、それぞれの情景が互いに重ならないような表現がなされている。
 画家のすぐ上方では人々が音楽に興じている。16世紀は教会の多声音楽(ポリフォニー)の黄金時代であり、その演奏には楽譜が不可欠だった。1573年にタリスによって作曲された『望みをほかに』は、音に対する数量的アプローチの頂点をなすものである。
 画面中央部には「節制」を象徴する女性が描かれており、彼女の頭上にある機械時計が、画面のまさに中央を占めている。機械時計は当時のあらゆる計量装置の中で、ヨーロッパ社会の性格を最も明確に表していた。
 このように『節制』の登場人物の多くは、現実世界の素材を均質な単位(ユニット)の集合体すなわち数量として、視覚的に表現する作業に従事している。これはルネサンス期の西ヨーロッパ社会の反映と見ることができる。

 しかし現実世界を認識するためのアプローチとして、数量的なもの以外を考えると、プラトンやアリストテレスが推奨したような反計量的・非計量的なものが存在する。彼らはあらゆるデータを、真の実在であると確信できるものとできないものという二つのカテゴリーに分類した。彼らが数量的に把握できる事物というカテゴリーを採用しなかったのはなぜだろうか?
 第一に、古代の人々は計量という概念を現代人よりはるかに狭く定義しており、もっと広く適用できる評価法の方を採用していた。例えばアリストテレスは、定性的な叙述・分析の方が定量的な手法より有用であると見なしていた。現代人は重さ・硬さ・温度などの性質は数量的に把握可能だと考えるが、そもそもどのようなものが計量の対象となるのかということ自体が大きな問題なのである。
 第二に、現代人は数学と物質世界が密接かつ直接的に結びついているということと、感覚を通じて認知できる世界を対象とする物理学は高度に数学的であるということを、自明のものとして受け入れているが、それ自体がむしろ驚嘆すべきことである。歴史的に見ても、抽象的な数学と実用的な度量衡学は、互いに引き付け合うと同時に反発し合う。しかし西ヨーロッパ人は数学と計測を結合させ、それを応用して、感覚的に認知できる現実世界を解釈するようになった。
 では西ヨーロッパ人はいかにして、なぜ、いつ、プラトンやアリストテレスのような反計量的・非計量的アプローチから脱却し、ブリューゲルの『節制』に示されるような数量的アプローチに達したのだろうか? 
 三つの問いの中で最も容易に回答しうる「いつ」という問題に、まずは取り組むことにする。1200年前後の西ヨーロッパには、数量的に構成された現実世界という概念をまともに考察する者は、ほとんどいなかった。しかし特に1275年から1325年の間の50年に、理論面はともかく応用面では、著しい変化が現れた。この時期にヨーロッパで最初の機械時計と大砲が作られ、ヨーロッパ人は数量的に把握できる時間と空間という概念を直視することになったのである(なおポルトラノ海図、遠近法、複式簿記も、この時期かその直後に、現存する最古の例が作られている)。さらに物事を数量的に考える兆しが現れたのは、西ヨーロッパの人口と経済成長が最初のピークに達した1300年前後のことだった。この兆しは、西ヨーロッパ社会が戦争や飢饉、黒死病といった相次ぐ恐怖に襲われた14世紀を通じて消えることはなかった。